Forget for get

呼吸が変わるとラクになる

呼吸が変わるといろいろほんとに変わっちゃう、ということを改めて

「呼吸・整体」を教えてくださっている森田敦史先生が本を出版されました。これは人類にとってのギフトだとおもう(これまでに講座を受けてくださった方々、理解を深めるためにとてもいいとおもいます! )。

 呼吸を通して、なんとなくぼんやりふんわり語られることが多くてスピリチュアル一辺倒になりがちな「(人やものごとの)本質」をロジカルにテクニカルに語ってらっしゃる、とおもう。ほんものの実用書(読んだだけでなんとなく、自分成長したかも的な感じ、になるかもしれないしならないかもしれないけれど、結局のところ実践しなければ何も変わらないという点を明確にされている点においても)。

この本を多くの人におすすめしたい、とおもったときに森田先生との出会いについても思いがめぐり、せっかくなので書いてみました。長いです。

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森田愛子先生、森田敦史先生(あいうえを順 笑)との出会ってからの自分の変化についておもうとき、なんだかちょっともうその影響の大きさに圧倒されるような感じすらあります。出会いは2011年、友人が森田先生のところで学んでいたというのがきっかけ。私はその友人のモルモット役としてその講座に行くことになったのでした。そのときは、それだけ。その後、森田敦史先生の0学のセッションを受けたのですが、そのときも、まあそれだけ。でもそのとき、森田愛子先生の「行き詰まったらきてください、お役に立てるとおもいます」という言葉はなんとなく残っていました。

2011年頃の私は、ヨガや瞑想、呼吸法に傾倒していたし、いろいろなことはヨガでなんとかなるし、整体は自分には必要ない、という感じ。ヨガ以外にも、それまでにHIVの治療として西洋医学の薬を飲むのはやだなあというところから、いろいろいろいろやってきていました。マクロビオティック、冷えとり健康法や、ハーブや精油アーユルヴェーダなどなど。体メンテナンスオタクといったところ。言われたことはとりあえずやってみる、という精神を日本の教育を受ける中で培ったわたしは、とりあえず、言われた通りきちっとやりました。ひととおり。中でも、アーユルヴェーダとの出会いは大きかった。これについては、以前ブログにも書きました。興味のある方はこちらからどうぞ。

転機になったのは、2014年の春頃。なにかが起きたわけではないんですが、ヨガや呼吸法や、ヴェーディックな生活や、いろいろやってる。でも、1、2カ月に一度くらい、呼吸が苦しくなることがある。前屈だって硬いままだし、花粉症も完治しないし、冷え性もあるし、生理痛もある。なんでだろう。うーん、これはちょっと人の意見を聞きたい、そうおもって、ヨガのプライベートレッスンを受けました。受けている最中に、何となく、あ、これ違うな、という感覚があったんですが、まあ、そう思ったとしても、言われた通りきちっとやれるタイプなんで、やったわけです。でもやっぱりとくに変化はなかった。そんなとき、愛子先生の言葉をふと思い出しました。「行き詰まったらきてください、お役に立てるとおもいます」。うん、これは完全に行き詰まったぞと。そうして治療院の扉を叩くことになりました。

愛子先生による治療には、先生が治療をストップされた今年の梅雨まで通っていました。最初の頃はだいたい2週間おきに通い(最終的には2カ月に1回くらい)、その都度の宿題(いくつかの動きを習い、それを日々実践する)をこなしていました。最初の数カ月で、みるみる、という言葉がぴったりの体の変化を体感しました。足の爪がきれいになって、冷え性もなくなり(この時点で冷えとり健康法とおさらば)、髪の毛や肌のつやがよくなって、生理痛は軽くなり、体のラインも柔らかくなるなどなどなど。

呼吸が変わったことによるこれらの変化だということが今はわかりますが、当時は、自分の中で何が起きているのかを知らず、ただ教えていただいたいくつかの動きを日々実践していただけ。そうして、ときを経て、どんな経緯だったか思い出せないのだけれど、2015年秋、森田敦史先生の講座で「呼吸のニュートラル」という概念を知ることになります。わあすごい!とか、目から鱗!とかそういう華やかな感じではなく、うへえええええというかんじでした。なんかもう、いろいろいろいろやってきたことが、全部つながった、と。ずしーんときた。愛子先生の治療だけでなく、ヨガとかアーユルヴェーダとか、ヴェーダとか、ヤマニヤマとか、NVCとか、マクロビとか瞑想とかぜんぶ。ぜんぶです。うへえええええ。これか、と。いろいろいろいろやってきたからわかることなのかもしれないけど、でも、いろいろいろいろやんなくってもよかったんじゃ? というなんかもう爽快感のある、うへえ。

私にとって大きなギフトだったのは、愛子先生の治療を通して先に体で「呼吸のニュートラル」を知り始めていたということ。そのあとに、知識としてのそれを知ったので、急に統合された感じ。その後ほどなくして、敦史先生の「呼吸・整体」の連続講座に参加し、AA(Aiko Addiction:愛子先生の治療への依存 笑)からも無事抜け出し、自分で自分の面倒を見ること、自分で自分に責任を持つ、ということについて肚をくくりながらも、他者の力を実感し、ああやっぱり人という字は、支え合って人となる…なんて金八先生に思いを馳せ、支え合うことが自立なんだなとか、自分のマインドのクセとか、体の使い方のクセとか、自分の呼吸を見ていく中でいろんなことが起きました。呼吸を見ようと思うと、結果的に全部みることになっちゃう。バガヴァッド・ギーターで言っている「マインドや体をつかって、マインドや体から自由になる」というのはこういうことか、と。それから、

「呼吸のニュートラル」という羅針盤ができたことで、マインドフルネスの質ががらっと変わりました。だから、「呼吸のニュートラル」を知る前と後では、もう格段に、いろんなことが違う。結果的にヨガインストラクターの看板をおろし(私が伝えたかったことはヨガでは難しいとおもったので)、肚から生きる、まんなかに還る、をキーワードに活動していくぞと肚をくくり、そうしたら、呼吸の講座をという声をかけていただいたりするようになった、というところです。

私の講座を受けるより、森田先生方の講座を受けたほうが…と思うこともなくはないのだけれど、旅の途中の私だからできることもあるだろうし、心をどうにかしたいと思って色々やってきた経緯もあるし、体を変えたい、というよりは心をどうにかしたい、という人と近いところにいるような気もするし、なにより私は愛子先生の治療や講座も受けているし、敦先生の講座も受けている(これはお二人にはできない経験、しかも現在進行形)! この経験は宝だし、だからこそのなにかがあるかもしれない、ともおもっている次第。その何かのひとつは、受けてみて超よかったから、一緒にやってみようよ!というお誘いをしたい気持ちが強いということだとおもう。編集者だった頃は、広く浅くいろいろな超いいよ!を伝えてきたけれど、いまは、ひとつに絞って深く伝えるということがおもしろい、というかんじです。

私が実感していて、ここ超シェアしたい!という部分を敦先生の著書から抜粋。

「たとえば、いわゆる悟りを開いたような、何かの極致に達した偉人・哲人たちの言葉にも、よく「ただ在るがままに」「自然体でいる」といったことが重要だとされます。しかし、さまざまな本を読んだ人であればわかるとおもいますが、この言葉は注意が必要です。「在るがままに生きる」「自然体でいる」というのは、究極に大きなスケールの所作で、それは実は小さなテクニカルな所作がしっかりできている人だけが実感できる世界です。」

「人間の体は呼吸状態に合った肉体に変化します。つまり、息が上がった呼吸状態ですと、その呼吸しようの筋肉・神経・関節になり、またその呼吸仕様の動きになります。(中略)だからこそ体を動かし、呼吸法をすることによって、新しい呼吸仕様の体に変化することをより加速的に促すのです。(中略)ふだんの呼吸状態が変わってくると、そしてふだんの呼吸状態への理解が深まると、そこからさまざまなモノ・コトの本質が見えてきます。」

「15年以上健康の世界に携わって多くの不調に悩む人たちと接してきた経験から、はっきりと断言できるのは、普段の自分に気を使えない人、些細なことを雑にする人は治りにくいということです。」

 

そして、これまでにも講座などでご紹介してきましたが、愛子先生の著書はこちらです。一家に一冊どうぞ。

 

いつもの呼吸で病気を流す - 酸欠が治れば自然治癒力はぐんぐん上がる!  - (美人開花シリーズ)
 

 

深呼吸のレッスン

深呼吸のレッスン

 

 

お二人のサイトはこちら。

森田愛子先生

自分の呼吸と日常を整える呼吸・整体K-Raku Style | 身体を育てなおす K-Raku style Yoga & Therapy & Learning

 

森田敦史先生

呼吸整体勉強会




 

 

 

 

 

もっと、早く、効率よく。そんな頭が優先の生活で体をおいてきぼりにするとき魂もおいてきぼりになるんだと思う。

睡眠をとって心身を休ませることは生きていく上で必要なことです。睡眠や休息なしには生きていくことはできません。休息が必要になったら体は眠りに入り、チャージが終われば目覚めるという完璧なシステムが搭載されているのが私たちの体です。何時間寝ればいいとか、何時間寝なくてはならないとかいろいろな情報がありますが、必要な睡眠時間は体がきちんと知っています。

その完璧なシステムとともに生きているでしょうか?

疲れているのになかなか寝付けない(あるいは眠るためにお酒が必要だったり)、朝は目覚ましのアラームで無理矢理起きる。何かに追われるように忙しく生活する日々ではもしかしたら日常茶飯事かもしれません。でも、人間が生きるために必要な睡眠や休息が充分に取れない、つまり人間が生きていくための基本的なシステムがきちんと作動していないというのは、体にとって非常事態です。

もっと、早く、効率よく。そんな頭ばかりが優先の生活では、体はおいてきぼりになってしまいます。体はさまざまな形でアラームを発しますが、それをなかったことにしたり、あるいはそもそもアラームに気づけなかったり。車でいえば、なんのメンテナンスもせずに高速で走り続けるようなものです。車が持つその性能をあますところなく発揮するためにはメンテナンスは欠かせません。人間で言えば、適切な栄養素を取り、心身が疲れていたら休む、体調が悪かったら休む。私たちは、体がなければ私たちはなにもできないにも関わらず、体をおいてきぼりにしがちです。

眠れない、朝すっきりと起きられない。そんな場合は、一度立ち止まることが必要でしょう。まずは、体がどんなアラームを出しているのか、体が今必要としていることはなんなのか、そこに耳を傾けてみます。つまり体の感覚に注意深くある、ということです。状況を急に変えようとする必要はありません。まずは気づくこと。マインドフルネスの練習の基本です。

そんなふうにスピードをゆるめて、体の声をキャッチしてみる。疲れているから休みたい、なんかやる気がでないからゆっくりしたい。いろいろあるでしょう。そんな声が聞こえてきた時、思考はどんな言葉を発するでしょうか。「OK、今日は会社を休もう!」それなら、自分の中で調和がとれていますから問題ありません。

でも、多くの場合、「いやいや、そんなこと言ってもこの仕事は終わらせないと」「やる気が出ないのは私が怠け者だからだ!」「みんなに迷惑がかかるし、休めるわけないじゃん」……そんな感じでしょうか。いろいろな声が出てきそうです。私たちは、自分に対しての言葉がもっとも痛烈です。なぜなら、自分が何を言われたら耳が痛いか自分がいちばんよくわかっているからです。

心と体の発するメッセージと思考が繰り出す痛烈な言葉。どちらも一度ひとつのテーブルにのせてみます。そうして深呼吸。しばし眺めてみましょう。どちらも自分の一部です。どちらも同じように大切に扱います。痛烈な言葉はそのまま受け取るとダメージが大きいですから、その言葉が出るにいたった意図を慮ってみます。休まずに動き続けると、何が起こるのかな? そんな問いを自分にかけてみてもいいかもしれません。達成感を味わいたいとか、役に立ちたい、仕事を通して成長したい、認めてほしい……。自分にとって痛くない言葉に変換されるまで時間をとります。

スピードに乗って走っているような状態では自分の声を聴くのは難しいですから、ゆったりとした呼吸を意識します。そうして自分の中にあるものすべてに光をあててみます。それはどんなものであっても、そこにあることが許されているものです。自分の中にあるすべてのものをただ認知する。それを排除しようとせず、そこにあることをよしとする。そんなふうにしてただ見つめることは、マインドフルなあり方です。マインドフルな状態で自分の行動を決めることで、これまでとはちょっと違う何かが生まれるかもしれません。


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高く澄んだ秋の空だなあと思っていたらススキが陽光を受けてキラキラしていました。道に咲く花や草をきれいだなあと思ってふと足を止める。そんな時間を大切にするところからはじめてもいいかもしれません。

 

 

 

〜9月以降の講座など〜

9/13(火)スタート
体と呼吸の相互作用で自分の真ん中を知り、そこにあるための6回連続講座@外苑前

remembering.hatenablog.com

 

9/17(土)〜19(月)
Zero Re-setリトリート@沖縄

サイキックの坂本敬行さんとのコラボリトリート。
私は呼吸と身体からのアプローチ、坂本さんはエネルギーレベルでのアプローチ。ニュートラルに戻り、魂の声を聴いて生きるきっかけになるようなリトリートです。興味のある方は詳細をお送りいたしますのでご連絡ください。

 

10/8(土)10:00〜16:00 @福岡県田川郡赤村

深い自己共感~身体感覚と呼吸を軸にした癒しと変容@赤村

 

10/9(日)10:00〜16:00福岡県奈良屋町

深い自己共感~身体感覚と呼吸を軸にした癒しと変容@福岡市

※10/8、9は同じ内容です。

インナーチャイルドと呼ばれる自分の中にある過去の傷や痛み。それらは時間の枠組みにとらわれず、常にあなたの今に存在し影響力を持っています。それは物事の捉え方や反応を左右するフィルターとして機能します。意識的には「こうしよう」と思っても、どうにもできないことが多々ありませんか? 自分をハイジャックする反応や感情。「もう嫌だ」と思っても何故か繰り返すパタン。「優しくあろう」と思っても、ついキツく言ってしまう、等々。「これがありのままの私なのだ」と思ってみても、どうもしっくりこない。それらを抑圧するのでもなく、無理にポジティブに捉えるのでもなく、「ありのまま」と言って流すのでもなく。深く深く自分の内側を観ていきます。

起きていることをただ認知する。それは、二元性から抜け出すことであり、その出来事をきちんと体験し、その体験をその都度完了させていくこと

“人生は一連の[望ましい、および望ましくない]出来事から成っています。で、私たちが、望ましいものを選び、望ましくないものを捨てようとしているかぎり、いやおうなしに[二元性の]葛藤が起こり、ショックを受けざるをえません。

 

『しなやかに生きるために 若い女性への手紙』/J・クリシュナムルティ星雲社

晴れの日もあれば、曇りの日、雨の日や嵐の日があるように、人生ではいろいろなことが起きます。それらの出来事に遭遇する中で、喜びや悲しみ、怒りなどさまざまな感情を体験します。人生は、シンプルにただ、体験の連続なのでしょう。

 

ところが、望ましい/望ましくないという二元性の中で生きているとき、「望ましい」ものだけを選ぼうとするとき、本来シンプルな体験であったはずの人生が、どんどん苦しくなっていきます。なぜなら、「望ましい」ものがある限り、必ず「望ましくない」ものがあるからです。「右」があってはじめて「左」があるように、「上」があってはじめて「下」が存在できるように、「望ましい」ものがある以上、必ず「望ましくない」ものが存在します。存在するものを存在しないことにするのは不可能ですし、そのための努力は不毛ですから、苦しいだけです。

 

さらに言えば、望ましい/望ましくないという二元性は自分で生み出しています。「晴れの日」を「望ましい」と判定し、「雨の日」を「望ましくない」と判定し、そうして二元性を作り出し、その中でもがいているわけです。ただし「望ましくない」があるからこそ「望ましい」を体験できるわけで、「望ましい」を体験するには二元性は役に立ちます。大事なのは、二元性はあくまで自分が生み出しているということに気づいているということ。それが絶対的な真実ではなく、自分の判定にすぎないということに気づいていることです。良い/悪い、正しい/間違っている、美しい/醜い……そんな二元的な判定をしているということに気づいているということです。

二元性にからめとられずに生きるために必要なことは、目の前に起きている物事を、ただそのままに見ることです。そのまま見ること。簡単そうに思えますが、意外と難しいもの。ちなみにクリシュナムルティは、観察と、評価の混ざった観察を分けることが知性の最も高い形であると言っています。物事をあるがままに見ることができると、物事はただ起きているだけで、そこに自分が意味付けをしているに過ぎないことがありありと分かってきます。つまり、晴れ=いい天気、雨=悪い天気というように、物事に対して自動的に行っている判定に気づくということです。

 

もう少し例をあげてみます。たとえば「Aさんは嘘つきだ」。これは観察でしょうか、あるいは評価でしょうか。あるがままに物事を見たときは、たとえばこんなふうになるとおもいます。「Aさんは3時に来ると言ったけれど、5時に来た」「私はAさんのことを嘘つきだと思った」。

 

さらに、「3時に来ると言ったAさんが3時を過ぎても来ていない」とき「私」はがっかりしたり、イライラしたりしたかもしれません。ある出来事があった、そして私にこんな感情が湧いた。晴れている空を見上げた時、なんだかワクワクした、雨が降っているのを見て、残念におもった。そんなふうに、良いとか悪いとかといった評価や判断ではなく、あるいは評価や判断を下している自分に気づくことも含めて、その出来事を前にして自分に起きたことをただ認知する。それは、二元性から抜け出すことであり、その出来事をきちんと体験し、その体験をその都度完了させていくことです。

 

私たちの思考は過去や未来に思いをはせては、恐れや不安を生み出します。過去の出来事を過去の出来事として認識することは、遭遇する出来事や感情に振り回されずに、歩いていくコツなんだろうとおもいます。

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夕暮れ時の海で光と闇が競演していました。光を体験するためには闇が必要です。闇を体験するには光が必要です。つまり、光と闇はいつもセット。どちらか一方だけを体験するのは不可能です。

 

 

〜9月以降の講座など〜

9/5(月)12:30〜18:30 @千葉県市川市

今この瞬間を自分の源のエネルギーで生きる 〜自分を見つめて人生を変容するきっかけになる1日〜

NVC(Nonviolent Communication)をベースに、今この瞬間、自分の中に何が起きているのかを認知することからはじめていきます。そのうえで感情の本来の役割を知り、自分の奥に眠っている自分が本当に大切にしたいことをすくいあげていく練習をしていきます。

自分自身とのコミュニケーションや他者とのコミュニケーションを、慈愛に満ちたものにしたい。そうして人生を自分らしく創造したい。そんな方におすすめの1日になるだろうとおもいます。


9/13(火)スタート
体と呼吸の相互作用で自分の真ん中を知り、そこにあるための6回連続講座@外苑前

remembering.hatenablog.com

 

9/17(土)〜19(月)
Zero Re-setリトリート@沖縄

サイキックの坂本敬行さんとのコラボリトリート。
私は呼吸と身体からのアプローチ、坂本さんはエネルギーレベルでのアプローチ。ニュートラルに戻り、魂の声を聴いて生きるきっかけになるようなリトリートです。興味のある方は詳細をお送りいたしますのでご連絡ください。

 

10/8(土)10:00〜16:00 @福岡県田川郡赤村

深い自己共感~身体感覚と呼吸を軸にした癒しと変容@赤村

 

10/9(日)10:00〜16:00福岡県奈良屋町

深い自己共感~身体感覚と呼吸を軸にした癒しと変容@福岡市

※10/8、9は同じ内容です。

インナーチャイルドと呼ばれる自分の中にある過去の傷や痛み。それらは時間の枠組みにとらわれず、常にあなたの今に存在し影響力を持っています。それは物事の捉え方や反応を左右するフィルターとして機能します。意識的には「こうしよう」と思っても、どうにもできないことが多々ありませんか? 自分をハイジャックする反応や感情。「もう嫌だ」と思っても何故か繰り返すパタン。「優しくあろう」と思っても、ついキツく言ってしまう、等々。「これがありのままの私なのだ」と思ってみても、どうもしっくりこない。それらを抑圧するのでもなく、無理にポジティブに捉えるのでもなく、「ありのまま」と言って流すのでもなく。深く深く自分の内側を観ていきます。

 

効率や合理的であること、より早く確実に結果を出すこと。美徳とされているこれらを求めることで、何を得て何を失うんだろう。

外なる社会の日程表は守るが、内なる時間、心の時間に対する繊細な感覚を、わたしたちはとうの昔に抹殺してしまった。個々の現代人には選択の余地がない。逃れようがないのだ。わたしたちはひとつのシステムを作り上げてしまった。ようしゃない競争と殺人的な成績一辺倒の経済制度である。(中略)一緒になってやらない者は取り残される。昨日モダンだったものが今日は時代おくれと言われる。一人が駆ける速度を高めると、みんな速く走らなければならない。それを進歩とよんでいる。

 『エンデのメモ箱』(岩波現代文庫

 

わたしたちは、なぜだかいつも急いでいます。家を出る前で時間がない、というのであればともかく、特にその後の予定がなくても、すべきことはさっさと終わらせようとしてしまいます。なんにつけても時短が重宝されるようです。でも、そうして数分を節約することによってなにが得られるのでしょう。時間を貯めておくことはできません。それがどんなことであっても、目の前のことを丁寧に、自分の心身に気づきながら行ってみる。それはつまり、今この瞬間を生きるということです。

 

効率や合理的であること、より早く確実に結果を出すこと。美徳とされているこれらを求めることで、失うものは思っているより大きいのだろうとおもいます。前へ、先へ、早く、もっとよく。行き着いたところで得られるものは、さらなる前へ、先へ。もっと、もっと、もっと!

 

それはちょうど、景色を見ることもなく、一心不乱に頂上を目指して山を登り、頂上にたどりつくとさらに高い山が目に入って、ああこんどはあれに登らないと。そんなふうに高みを目指すようなもの。

 

でも、どんなふうに山を登るかは自分で決められることです。山道で出会う草木や花々、自然の匂いや風、光を味わいながら頂上へ向かいながらも、ひょっとして途中で下山してもまあいいか、そんなふうに気楽に歩を進めてもいいわけです。

 

スピードに乗っているときは、自分を見失いがち。山道を転げ落ちるかのように、ただ足が前に出ていくようなときには、一旦停止して内省する時間を持つ必要があります。もしかしたらどんどん追い越されるかもしれません。時間がかかったり、そのことをけなす人もでてきたりするかもしれません。それでもいいから自分らしく歩くぞという意志も必要でしょう。

 

ここ数日、秋の気配がよりはっきりしてきたような感じがします。人間の身体を含む自然は、移ろうこと、変化し続けることがその本質なのだなあとしみじみと感じます。

 

環境も自分自身もどんどん変化するからこそ、1日の中に少しだけでも立ち止まる時間をつくることは自分をまんなかに戻すのに有効だなと思います。川の流れに乗って流れていくだけでなく、その流れを俯瞰して見つめることで落ち着いて自分の道を歩けるのだろうと思います。

 

静かに座って自分の呼吸を感じ、自分のまんなかに戻る時間の豊かさははかりしれません。ついちゃんとやらないと、と頑張ってしまいますが1週間に1度70分座るよりも、5分でも10分でも日々の生活に取り入れてみるのがおすすめです。

 

そうはいっても、なかなか時間がとれない、という声もよく聞きます。私が最近気に入っているのは、朝の掃除の時間を特にマインドフルに行うこと。自分の呼吸に気づきながら掃除機をかけます。掃除機をかけるためには必要のない力みを発見したり、ちょっとしたものを動かすのを面倒だなと感じていることに気づいたり。ぞうきんがけのときには、一歩一歩の感覚を大切に前に進みます。肩や背中の感覚、呼吸にも意識を向けながら、一歩一歩。

 

こんなふうにするととても時間がかかりそうに思えるかもしれませんが、急いで掃除をするのと、たいしてかかる時間は変わりません。家も心身もすっきりするので、むしろ効率的だなとおもいます。

 

 

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北岳に登頂し、山頂から朝日を富士山とご来光を臨んだときの1枚。北岳は今まで登った中でいちばん好きな山。久々に、山に登りたいなあ。

コンビニ弁当を食べる「丁寧な暮らし」の形だってある

丁寧な暮らし。そんな言葉から思い浮かべるのは、手作りのいろいろや、素材にこだわったものを選ぶこと、自然に寄り添うようなあり方でしょうか。もちろんこれらが「丁寧」の現れであることもあるでしょう。でも、「丁寧」であればこれらの現れがあるとは限りません。

 

ていねい【丁寧】

注意深く念入りであること。細かい点にまで注意の行き届いていること。また,そのさま。

動作や言葉遣いが,礼儀正しく,心がこもっている・こと(さま)。

 

大辞林

 

丁寧の意味を改めて見てみると、あくまでも心のあり方です。1の内容はまさにマインドフルネス。大切なのは外側に現れる現象ではなく、自分の内側に何が起きているか、そこに目を向けているかです。たとえオーガニックの食材をそろえて、時間をかけて料理をつくったとしても、その行為をするときに自分の内側に注意深さがなければ、それは「丁寧」ではないわけです。反対に言えば、たとえコンビニで買ってきたお弁当を食べるのだとしてもそれは「丁寧」になりうるということでもあります。

 

わたしたちはつい、外側に起きる現象にとらわれてしまいます。そして、そこをなんとか変えようと努力をします。でも、それは頭痛がしたら鎮静剤を飲んだり、胃が痛いからと胃薬を飲んだりするようなもの。それ自体は悪いことではありませんが、対処療法であって根本の治療にはなりません。結局のところ、いつまでも薬に頼ることになってしまいます。

 

自分を変える、ということはその大元のところ、つまり頭痛が起きやすかったり胃が痛くなったりするような生活習慣を見直すということです。丁寧に暮らそう、そう思ったときには、まずは内側に目を向ける必要があります。自分の内側の細かい点にまで注意が行き届いているだろうか。そうしてはじめて、外側の現象に「丁寧」が現れてくるのだろうとおもいます。

 

「丁寧な暮らし」とはつまるところ、自分に起きていることを注意深くすくいあげていくプロセスなのでしょう。たとえば、お腹はすいているけれど、疲れていて料理をしたくないようなとき。自分を鼓舞して料理をするのではなく、まず自分が疲れている、ということに目を向けてみる。そうして、ああ今は休息が必要なんだな、と自分の内側にあるものをすくいあげる。その上で、空腹を満たすために、料理をするのか外食をするのかを決める。その注意深さはまさしくマインドフルです。

 

ところが「丁寧な暮らしをしなければ」「丁寧な暮らし=手料理」のような思い込みにしばられていると、自分の内側に起きていること、疲れているなあ、料理したくないなあ、休みたいなあ、ということに気づく暇もなく、あるいは気づいていてもその声を無視したりなかったことにしたりして「料理を作らなければ」と頑張ってしまいます。そこには注意深さはなく、思い込みに乗っ取られてただひたすら走っているような状態です。

 

体は、自分に起きていることを示す掲示板のようなもの。体の声はつまり、わたし自身の声です。その声に耳を澄ませ、自分の感覚を信じること。その上で行動を決めることが「丁寧な生き方」なのだろうとおもうのです。

 

現代社会では、思考ばかりを使って体感覚がおろそかになりがち。思考は過去と未来を行ったり来たりしますが、体で感じることは、今この瞬間に起きている現実です。マインドフルに生きる、つまり丁寧に生きるということは今この瞬間を生きること。体の感覚、とくに呼吸に注意深くあることはマインドフルネスのはじめの一歩であり、すべてです。

いい波かどうかなんて、その人次第なんだ、その人がきもちよく波に乗ったらその日の波は“いい波”になるんだ

ちょこちょこ波があって、連日海。

少し前にマイロハスに書いた記事をあらためて。
海が教えてくれること、ってなんかベタで恥ずかしいような気持ちになるんだけど
大事なことを体感させてくれる場だなあとおもう。

www.mylohas.net

 

サーフィンをしているといろいろなことを気づかされます。たとえば、冬の寒い海で波をひたすら待っているとき。あれ?私これ、ほんとに楽しい?とか(笑)。波に乗れるという期待感からか、はたまた意地か。

 

サーフィンとひとことでいっても、そのスタイルは人それぞれ。小さい波が好きな人もいれば、大きい波が好きな人もいる。競技のひとつとして技を磨きたい人もいれば、上達するかどうかはどうでもよくて、だた波に乗る楽しさだけを味わいたい人もいる。ちなみに私の冬のサーフィンの目的は、頭を濡らさないこと、になります。寒くなっちゃうから(笑)。板の長さも、いろいろです。

 

サーフィンをほんとうに楽しむために、とっても大切なことは、自分がどうしたいかを知っていること。小さい波が好きな人が、なんか大きい波に乗ったほうがかっこいいし、恐がりと思われたくないから、と大きい波の海に入っても楽しめないし、事故の原因になったりします。好きなサイズの波のポイントで入っていても、誰かにこれいい波!と言われた波が、必ずしも自分好みとは限りません。誰かと一緒に海に入ったとしても、その誰かが楽しませてくれたり、守ってくれたりするわけではなくて、海では基本的に自分の面倒は自分で見なければなりません。これって、サーフィン中だと結構当たり前なんですが、日常でもそのまんま、そうだとおもう。

 

自分が何を楽しく感じるのか、何に違和感を感じるのか。なんにつけてもそれを知っていることが大事。その上で、周りの意見を尊重して受け取りながらも、どうするかは自分が決める。そうしながらも、自分の力なんてまったく及ばない大きな存在を感じていること、忘れないでいること。人生を楽しむ最低条件だとおもう。

どの波にどんなふうに乗るかは自分で決められるけれど、どんな波が来るかは自分にはどうにもできません。自分にはどうにもできないこともあるけれど、自分を楽しませるために自分で選べることもある。サーフィンのいいところは、こういうことを体感させてくれることなんだとおもう。


海岸に打ち寄せてはまた引いていく波。夏の夕暮れ時、ちょっと涼しくなってきた海辺で波を見ているといつまででも見ていられるような気がします。波はどうして起こるのかというと、おおざっぱに言うと、波は風と海水全体の動きによって生まれます。海岸からはるか沖で生まれた海のうねりが、海岸に届くと波としてざぶんとなるわけです。ただ、同じうねりがもたらす波でも、海底の地形によってその波の形状は変わってきます。荒々しい波、ゆるやかな波、早い波、静かな波…。

 

私たちが人に与えることができる影響、反対に言うと私たちが人から与えられる影響は、この海のうねりのようなもの。どんな波が現れるかは、それぞれの海岸の地形次第で、うねり自体にはそれがどんな波を起こすかは未知。

 

例えばAさんが何かをして、それに対してBさんは怒る一方で、Cさんはむしろ感謝するということってあります。Aさんがしたこと(うねり)は、BさんやCさんの中にあるもの(海底の地形)によって怒りという波を生んだり、感謝という波を生んだりするのであって、Aさんのうねり自体が原因ではないということです。

 

もう少し具体的な例で言うと、恋人からメールがこない。あなたからメールが来ないから、私こんなに寂しい思いをしてるじゃないの! そんなふうに、自分の寂しい思いが恋人からのメールが来ないせいだと思い込んでしまいがち。でも、もしその恋人との関係が終わりに近づいているとか、他に好きな人ができたとか、そんな場合には恋人からのメールが来ないことはむしろラッキーなことになるでしょう。つまり、恋人からメールが来ないことがその感情を生んだわけではなく、自分の中にあるもの、たとえば彼とコミュニケーションをとりたいとか話を聞いてほしいという思いが寂しさを生んでいるに過ぎないということです。

 

反対に言えば「相手を怒らせてしまった」ということは起きようがなく、相手の怒りの引き金にはなったかもしれないけれど、原因は相手の中にあるということです。どんな場合であれ、感情の責任はその人本人にある。その境界線をおかしたときやあいまいなときに、対人関係がややこしくなってきますし、自分が自分らしくあることにストップをかけてしまう。

 

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マウイ島で訪れたピアヒ(ジョーズ)。この日は30fの波だった。いつも一緒に海に入っているナカジマさんがよく言ってる。「いい波かどうかなんて、その人次第なんだ、その人がきもちよく波に乗ったらその日の波は“いい波”になるんだ」。



〜8月以降の講座など〜

8/21(日)10:00〜12:00 @武蔵小杉
呼吸の練習会

マインドフルコミュニケーションのための呼吸のワークショップ

 

8/21(日)13:00〜15:00 @武蔵小杉
マインドフルコミュニケーション

感情に振り回されず、自分もみんなも大切にするための会



8/23(火)@外苑前
自分に還るシリーズ★源につながる身体と呼吸作り★全6回のお稽古 第五回

www.cc-creators.com



8/27(土)13:00〜16:00 @藤沢市
マインドフルネス3回講座vol.3

google社だけでなく、多くの企業、ビジネスリーダーが実践するマインドフルネスを東洋医学と共に学ぶマインドフルネス瞑想講座 | 108 towayoga



連続の講座も単発参加も可能です。
そして、9月以降ですでに決定しているものはこちらです。

9/5(月)12:30〜18:30 @千葉県市川市

今この瞬間を自分の源のエネルギーで生きる 〜自分を見つめて人生を変容するきっかけになる1日〜

NVC(Nonviolent Communication)をベースに、今この瞬間、自分の中に何が起きているのかを認知することからはじめていきます。そのうえで感情の本来の役割を知り、自分の奥に眠っている自分が本当に大切にしたいことをすくいあげていく練習をしていきます。

自分自身とのコミュニケーションや他者とのコミュニケーションを、慈愛に満ちたものにしたい。そうして人生を自分らしく創造したい。そんな方におすすめの1日になるだろうとおもいます。

 

9/17(土)〜19(月)
Zero Re-setリトリート@沖縄

サイキックの坂本敬行さんとのコラボリトリート。
私は呼吸と身体からのアプローチ、坂本さんはエネルギーレベルでのアプローチ。ニュートラルに戻り、魂の声を聴いて生きるきっかけになるようなリトリートです。興味のある方は詳細をお送りいたしますのでご連絡ください。

 

10/8(土)10:00〜16:00 @福岡県田川郡赤村

深い自己共感~身体感覚と呼吸を軸にした癒しと変容@赤村

 

10/9(日)10:00〜16:00福岡県奈良屋町

深い自己共感~身体感覚と呼吸を軸にした癒しと変容@福岡市

※10/8、9は同じ内容です。

インナーチャイルドと呼ばれる自分の中にある過去の傷や痛み。それらは時間の枠組みにとらわれず、常にあなたの今に存在し影響力を持っています。それは物事の捉え方や反応を左右するフィルターとして機能します。意識的には「こうしよう」と思っても、どうにもできないことが多々ありませんか? 自分をハイジャックする反応や感情。「もう嫌だ」と思っても何故か繰り返すパタン。「優しくあろう」と思っても、ついキツく言ってしまう、等々。「これがありのままの私なのだ」と思ってみても、どうもしっくりこない。それらを抑圧するのでもなく、無理にポジティブに捉えるのでもなく、「ありのまま」と言って流すのでもなく。深く深く自分の内側を観ていきます。

 

9月スタート呼吸の6回講座の募集がスタートしました

CCCアジト@外苑前での呼吸の6回講座、ありがたいことに好評で、
9月からまたスタートします。


この6回を通して行き着くところは、自分で自分の面倒を見られるようになること。
身体と呼吸のまんなかを知って、そこにいつも自分で戻れるようになること。

自分のまんなかかから離れたとき、感情面、肉体面にあまり歓迎したくない現象があらわれてきます。
イライラ、悲しみ、怒りや、肩こり、腰痛、子宮や胃腸をはじめとする内臓の不調からガンやさまざまな病気。

それらは心身からのメッセージです。
とはいえ、それらを読み解くことは私にはできません。
本当はイエスって言いたいことがあるのに言ってないから首を横に動かすと痛い、とかね。
でも、そういう細かいことはなんだかよくわかんなくても
自分という源に還ればいいわけです。
この講座でお伝えするのは、源に還る、つまり自分のまんなかに在る方法。
まんなかに自分がいつもある、というそのための方法です。

ピンと来た方のご参加、おまちしてます。



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