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Forget for get

呼吸と体を通して、自分を思い出すこと、それは「自分」を忘れること。呼吸と日々の食事でHIVとともに生きる心と身体をケアする松永真美が、生きることを活かすこと、「生活」について綴るつれづれブログ。

掃除しようぜ!

2016年も残すところ1カ月とあとすこし。12月、師走になれば文字通り慌ただしく駆け抜けるように日々が過ぎていきます(もっとも、師走でもないのに瞬きをしている間に終わってしまったんじゃないかという月もあるのだけれど)。わたしにとって年末の行事といえば、大掃除。クリスマスとか忘年会とかじゃなくて、大掃除。編集者として働いていた頃にも、年末進行で死にかけ状態であっても大掃除だけはしていたのは、母の影響でしょう。

1年を締めくくって、新しい年を迎えることは、大きなイベントです。すっきりと整頓されたうつくしい状態で新しい年を迎えるのは、清らかなものです。それと同じように、1日を締めくくって、新しい一日を迎えるのも日々のイベントだとおもうのです。人生は、日々の積み重ね。その日々を大切にするのは、自分を大切にするということでもあります。

人は、環境に大きな影響を受けます。住まいはその人を表すと言うのは、そのとおりで、心が乱れているときには家の中も乱れます。清潔で整頓された場所に行くと身も心もスッとする感じがするのは、心身がその場所の状態に影響を受けているから。つまり、うつくしくととのった部屋で暮らせば心身もととのいやすくなりますし、散らかった場所で暮らせば、心身もやはりそのようになるということです。部屋も心身も(ついでにお金も、なにごとも)、循環か滞りか、です。

そんなわけで、なんとなく落ち着かないな、というときは何も考えずに家の中を整理整頓。心の乱れをどうにかするのは大変ですが、家の中の乱れを正すことは多少は楽にできるでしょう。清潔で整頓された場所で暮らすことは、マインドフルに日々を過ごす大きな後押しになります。それに、日々、小掃除をしていると、大掃除も楽になります。

まずは、1日を終えるときに、部屋を整理整頓するところからはじめましょう。一年の計は元旦にあり、といいますが、一日の計は朝にあるようにおもいます。きちっと掃除をした完璧な状態を目指す必要はありませんが、人を招き入れても恥ずかしくない程度には部屋を整頓して眠りにつきます。自分を大切に扱うということは、自分が心地いい状態をつくってあげるということ。目覚めたときの自分が心地のいい状態をつくってから眠りにつくと、不思議と眠りも深くなるものです。

たとえば、キッチン。食材を手に入れて、調理をし、食べ、そして片付けるところまでが食の事、食事です。食べ終わってそのままゴロンとしたくなるかもしれませんが、使った調理器具や食器をきちんと洗って食器棚にかたづける。食器を洗ったついでに、シンクもさっとこすり、コンロ周りも拭いておきます。ここまで終えて、食事の終了です。

お風呂も同じように、入った後にそのままさっと洗います。温まっている状態、濡れたままの状態のほうが汚れは落ちやすく、手間もかかりません。バスタブを洗う無理な姿勢で腰を痛めることもないでしょう。ちなみに、無理な姿勢をとれば呼吸も乱れます。体のどこかを痛めれば呼吸も心も乱れます。

汚れは最初は、小さなチリやホコリです。そこに油や皮脂などが重なることでしつこい汚れになっていきます。チリやホコリであれば、はたきでさっとひと払いすればきれいになります。心も同じで、最初はちいさな違和感だったものが、だんだん大きくなっていくものです。汚れも心の違和感も溜めないこと。日々を心地よく暮らすコツですね。

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猫には暦は関係ないようで、いつでもマイペース。でも、新月や満月のときには様子が変化します。私も、その頃は心身に変化が在ります。自然環境に影響を受けるのは、どうにも避けようがありません。

 

 

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なにかをどうにかしようと思っている限りは結局のところ、苦しいところにい続けることになる

「心をととのえる」。マインドフルネスやヨガ、瞑想などが一般的になり、こんな言葉をよく見聞きするようになりました。「心をととのえる」。この言葉からどんな状態をイメージするでしょうか。どんなときも心穏やかで、冷静、感情の振り幅がないような、そんな感じかもしれません。ついカッとなって声を荒げてしまったり、なんだかわからないけどいろいろなことにイライラしたり、落ち込んだり、不安になったり……。そんな感情の波にもまれることなく、ピースフルな状態でしょうか。

マインドフルネスとは、いまここにあるものを、そのままに体験すること、そのことに気づいていることです。どんな大きな怒りがあろうが、悲しみがあろうが、その感情をただ体験する。その怒りをどうにか鎮めようとか、悲しみをなくそうとか、そういうことはしません。マインドフルネスは、心を穏やかにするものではないのです。結果的に、心が穏やかになる、ということが起きるかもしれませんが、心を穏やかにするものではないのです。

心や思考は、とにかくなにかをしたがります。「私には何もかもが不足している」とか「自分には価値がない」という観念が根っこにあるので、その不足、欠乏を埋めるために、また、達成感を感じるため、自分の存在の意義を見いだすために何かを「する」。

こんな自分は、ダメなんだ(=自分は欠乏している)。だから、マインドフルネス(やヨガや瞑想や、あるいはなにかの講座やセミナー)で、その自分をどうにかしなければ。存在する意味のある自分にならなければ。そんなふうに思考が判断し、マインドフルネスの練習をせっせとしたりするわけです。そうして、なんだか自分が成長したような感じがして(達成感)、満足します。でも、根っこにあるのは欠乏感ですから、まだこんなんじゃだめだ、とさらに頑張る、達成感、欠乏感、頑張る……ということがおきてきます。永遠のループです。

なにかをしようとする。なにかをどうにかしようとする。そうなると、思考の罠にかかって、永遠にそこから出ることができません。とにかく、なにかをしたいのが思考だからです。つねに、なぜこれが起きたんだろうと分析したり、どうすればここから一歩進んだところにいけるだろうかと考えたり、あのいつも落ち着いているひとは、どうしてあんなふうにいられるのだろうかと比較したり、とにかく忙しく働いています。思考の根っこにあるのは欠乏しているという考えですから、思考から抜け出さない限りはずっと苦しいわけです。

マインドフルネスの練習では、そういった思考の働きも含め、自分に起きることをただ体験します。それを消そうとかコントロールしようとか、そういう思考の喜ぶことはしません。思考から離れて自分に起きることをただ体験するために、体の感覚を利用します。というか、せっかく体があるのですから、きちんと「体」験すればいいわけです。

そして、思考の弱点のひとつには、過去と未来にしか存在できないということがあります。過去の記憶をもとに、なにかを恐れたり、未来のことを考えて不安になったり……。一方で、体の感覚は今この瞬間の現実です。たとえば、今スマホでこれを読んでいたとしたら、そのスマホを持つ手の感覚を感じることができるでしょう。でも、昨日の手のひらの感覚は感じることはできないですよね。思い出すことはできるかもしれません(思い出す=思考です)が、感じることは不可能です。つまり、体感覚として物事を体験するとき、必然的に今この瞬間にいることになるわけです。そうすると、自動的に思考から離れざるをえなくなるというわけです。思考が持っている欠乏感という根っこをどうこうしなくても、それに影響されないところに気づいたらいた。そんな感じでしょうか。

なにかをどうにかしよう。そう思っている限りは結局のところ、苦しいところにい続けることになります。今苦しさを感じているのだとしたら、それをどうこうしようとするのではなくて、ただ体験する。マインドフルネスの練習はとっても地味なんです。

 

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自分を受け入れるというのは、ダメなところを好きになる、とかそういうことではなくて、ダメとか良いとか判断なしに、ただ、そんな自分がいるなあ、と認める、ということです。

 

 

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『バガヴァッド・ギーター』がおしえる3種類のしあわせ

ヨガの教典のひとつである『バガヴァッド・ギーター』。王子アルジュナと、彼の導き手である神様クリシュナとの対話で構成された叙事詩です。ガンジーが「スピリチュアルディクショナリー」と呼んだり、アインシュタインが愛読していたり、ジョージ・ハリスンが歌詞の元にしたりと、結構いろんな人が読んでいるみたいです。生きるための智慧がちりばめられたお話です。

この『バガヴァッド・ギーター』では、しあわせには3種類あると書かれています。まず1つ目が「健康、経済、人間関係がうまく回ること」。

健康で大きな病気や怪我もなく、裕福な生活をしている。たとえば、庭付きの一軒家に住んで、季節ごとに好きな洋服を買い、話題のレストランでおいしい料理を食べ、たまには海外旅行にも行く。そんな感じでしょうか。そして理想的なパートナーがいて、子どもも特に問題を起こすことなく健やかで、両親や親族との人間関係もうまくいっていて、仕事やコミュニティでの人間関係も円滑。そんなイメージでしょうか。これが達成されれば充分な感じがしてしまいますね。そして、一般的な「しあわせ」な人生のイメージはこれかもしれません。

2つ目は、「これらに執着せず、物質的なことに縛られないこと」。

生老病死、生まれること、老いること、病気になること、死ぬことは自分ではどうにかすることはできません。それに、すべては変化していきます。たとえば、庭付きの一軒家を得たとしても、火事や災害で失うことがあるかもしれません。理想的なパートナーが、ある日心変わりをしたり、交通事故で死んでしまったりするかもしれません。子どもやそのほかの人間関係も同じです。健康も経済も、人間関係もすべては変わりゆくものです。それらを得ることでしあわせになった気分になりますが、それを失う恐れも生まれてしまいます。だから、それらを得ることは、苦しみを得ること。だから、それらに執着せず、苦しみから自由になることでしあわせになろう、そんな感じです。

そして、3つめは「何にも執着せず、この世から自由になろうとも思わないこと」。

1つ目のしあわせは、何かを得ることでのしあわせ。2つ目は、執着をしないことで自由になるしあわせでした。3番目は、何かを得る執着も、執着をしないことへの執着もどちらもない状態です。そもそもしあわせになろう、という意識がないような状態です。

すべての出来事を慈悲として受け取るため、自分がどんな状況に置かれているかが自分の「しあわせ」とはリンクしていません。むしろ、どんな状況にあっても「ああ、しあわせ」と受け取れるしあわせでしょうか。

しあわせとは「幸せ」とも書きますが「仕合せ」とも書きますね。仕合せとは、し合わせたこと。運命や巡り合わせ。偶然巡りあった良いことも、悪いこともすべて「し合わせ」ということです。つまり、しあわせとは、自分にとって都合のいいことだけではないわけです。雨が降っても、晴れても、どちらにしても「し合せ」だということに気づいていると、雨が降っても晴れても、しあわせなわけです。

『バガバッド・ギーター』では、どのしあわせが良いとか悪いとか、そういうことは言っていません。ただ、しあわせっていっても、まあ3種類あるんだよね、とおしえてくれています。そして、どれを選んでもいいんですよ、と。そして、それぞれのしあわせを得るために必要なことも教えてくれています。1つめを得るためには、行動すること。2つめは学ぶこと。3つめは慈愛です。ちなみに、ヨガで言えば、それぞれカルマヨガ、ギャーナヨガ、バクティヨガにあたります。現代の体を使う「ヨガ」はヨガのほんの一部で、ヨガの世界ってほんとに深淵なのです。

マインドフルネスの練習をしていくと、3つめのところが体感的にああ、そうだよな、とわかるようになる気がします。まあ、わかるんですけれど、ずっとその状態でいられるわけでもなく、恋がしたい!とか素敵な洋服がほしい!そしたらしあわせ!とかも時折おもったりするわけです。心ってすげいな。

f:id:remembering:20161101112956j:plain自然がつくりだすものの繊細さや完全さって、なかなかに「有り難い」ことにおもいます。「し合せ」もやっぱり、有り難いこと。でもすべてのことは「し合わせ」。つまり、なんでもかんでもしあわせだし、なんでもかんでもありがたいことなんですね。

 

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心から味わって食事をする。毎日できるマインドフルネスの練習です。

新米がおいしい季節、食欲の秋ですね。暑い夏には食欲が落ち、涼しくなってくると食欲が出てくるのは多くの人が感じていることだと思います。こういう、お腹が空いたな、とかあんまりお腹が空かないな、という体の感覚に耳をすませることはマインドフルネスの練習においてとっても大切です。

思考が優先して働いている現代では、物事の判断基準が「正しい」か「間違っている」かになりがちです。そうすると、頭ばかりを使うことになり、思考の筋肉(そんなものがあるかどうかは別として)がどんどん育って、体の感覚がどんどん鈍くなっていってしまいます。私たちを苦しめているのは私たち自身の思考です。そして、正しい/間違っているを基準に物事を選ぶ、つまり頭を使えば使うほど、どんどん苦しくなっていく、ということです。

頭を休ませるためには「頭を休ませる」をすればいいのですが、いざ「頭を休めよう」とすると、頭を休ませるためにはどうすればいいのだろうか、とさらに頭を使い始めてしまいます。そんなときに役に立つのが五感を使うこと。五感から入ってくる刺激をただ感じることです。日常生活の中で五感をフルに使いやすいのは食事です。目で見て、香りを嗅いで、口に入れれば、食感があり、音があり、味があります。

食事をするときは、食事をすることだけに集中します。まずはほんとうに今、食べたいかどうか? お腹が空いているかどうか? お腹が空いていなくても、思考は「今食べておかないと食べる時間がない」とか「食べないと元気が出ない」とかいろいろ食べる理由を生み出します。

 

でも、体は答えを知っています。

 

食べることに決めたらスマホや携帯、PCなどは目に入らない場所におくか、どうしても気になる場合には食事の間だけ電源をオフ。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚に意識を向けながら味わって食べます。味わってみて、おいしくないな、と感じたらもしかしたらそれは自分には必要のないものかもしれません。

食べ終わったときの体の感覚はどうでしょう。食事はエネルギーを補給するためのものです。食後、エネルギーに満ちて動き出したくなるような感覚になるかどうかは自分に必要なものを適量食べたかの判断基準になります。食事を通して気づけることはたくさんあります。そして、体感覚を取り戻すことは、自分に気づくための第一歩です。

体感覚に気づくことは、マインドフルネスの練習においてとても大切なことです。体感覚に気づくということは、自分に気づくということだからです。たとえば、感情は体感覚として現れます。切ないときに胸がきゅーっとなるというのはよく起きることのように思いますが、怒りや悲しみも体に、体感覚として現れます。

感情を体感覚として受け止める。体感覚なしに、ただ感情そのものを受け止めようとするとどうしても思考に走ってしまい、結局のところ感情に蓋をするということになってしまいがちです。あるいは、その感情の意味を追求したり。

でも、感情=体感覚ということが体でわかると、それをただそこにあるものとして受け止めやすくなります。たとえば指を切って痛いとき。それについてあれこれ詮索せず、ただ「痛い」とおもうでしょう。そして、あのときああしていれば、切らなかったかも、ああなんて不注意だったんだろう。そんな考えも出てくるかもしれません。そうしてその考えによってだんだんイライラしてきたりする、ということが起きるかもしれません。でも、考え始めなければ、指を切った痛みというただそれがあるだけです。

感情も同じで、悲しみも怒りも、体感覚としてただそれがあるだけです。良いも悪いもなく、ただその感情がある。感情を体感覚としてとらえるとき、そんなふうに感情をみることが楽になります。でも、感情についてあれこれ考え始めると、たとえば、ああしていればこんなことにならなかったかも、ああ、なんて不注意だったんだろう―どんどん思考にとりこまれて感情から離れてしまいます。でも、ああ、悲しみがある。そんなふうにその感情を体として体験すること、認知することでこそ、その体験が完了します。いつまでも悲しい、苦しい、そんなときはたいてい、その感情の火に思考が油を注いでいるときです。

アーユルヴェーダでは食べたものがきちんと消化されないと、それが毒素となり病気になると言っていますが、未消化物とは、消化できなかった食べ物だけでなく、なかったことにされた感情も含まれます。つまり、感情をきちんと完了させることは心身ともに健康でいるためにも大切なことです。

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新米がおいしい季節です。噛めば噛むほど甘くなるお米を、じっくりゆっくり噛んで、その味わいを楽しむのは豊かな時間だなあとおもいます。

 

その怒りも悲しみ喜びも結局のところ自作自演

誰かに対して怒りや、イライラを感じたとき。この人がこうじゃなければ、この人がもっとこうだったら、こんなに感情が揺さぶられなくてすむのに……。そうして、でも人は変えられないわけだし、じゃあどうしたらいいんだろう……。そんな無限のループに陥ることはないでしょうか。

怒りやイライラなどの感情の裏側には、多くの場合自分の考えがあります。そして自分は自分のその考えが「正しい」と思い込んでいるので、相手がその「正しさ」の規範から出たときに「それは間違っている」という考えが瞬時に立ち上がり、怒りやイライラを生み出したりします。

たとえば「家族は協力しあって当然だ」というような考えがあったとします。そもそもこれが自分の「考え」だということがしっくりこない場合もあるかもしれません。家族が協力しあうのは当たり前だし、自分の「考え」ではなくて、世の中の理でしょう、多くの人が同意するはず、というような「考え」も浮かんでくるかもしれません。そこには「家族は協力しあうべきだ」だけでなく、「多くの人がそうだといっていることは正しい」という考えもあるということですね。

さて、「家族は協力しあうべきだ」の考えがあった場合に、家族で出かける時間に夫がテレビを見ていたり、ゴロゴロしていたりしたとしたらどうでしょうか。きっと怒りやイライラがわいてくるでしょう。「なんで手伝ってくれないの!」「自分のことしか考えてない!」そんな言葉もでてくるかもしれません。夫がもっと協力的だったらもっと楽に暮らせるのに……。でも、人は変えられないっていうし……。

でも、その根っこにあるのは、夫の言動ではなく「家族は協力しあうべきだ」という考えです。もしも「家族はそれぞれ好きなことをすべきだ」という考えがあったとしたら、夫のその言動は喜ばしいものになるでしょう。感情が湧いてきたとき、その矛先が相手に向きがちですが、一度立ち止まって、その根っこが自分にあることを思い出してみる。それは自分とともにあること、自分にやさしくするということだとおもうのです。

怒りが湧いてきたりイライラしてきたりしたら、一旦停止。感情に流されず、自分が選んだ流れに乗るための技術です。感情や思考はどんどん前に前に進もうとしますから、まずは一旦停止です。でも、思考を一旦停止するのは難しいですから、体を使います。つま先立ちになって、とん、とかかとを床に下ろすのはとても効果的です。何度かとん、とん、とかかとをおろしましょう。今この瞬間に碇をおろすようなイメージです。

感情を相手にぶつける前に、まずは立ち止まって自分に怒りがあることを確認します。そうして、さらにその裏にある「家族は協力すべきだ」という考えがあることも認めます。当然のことながら、自分と相手は違う人間ですから、自分の考えを同じようにそっくりそのまま相手に持ってもらうことはまあ、無理でしょう。たとえ「家族は協力すべきだ」という考えが同じようにあったとしても、どんなふうに協力するのかについてはそれぞれのやり方があります。出かける準備を手伝うことを協力とみなす場合もあれば、休日にたっぷり休息をとることを温かく見守ることを協力とみなす場合もあります。相手と自分はちがう。それをふまえた上で、じゃあ自分は一体何を求めているんだろう、ということに目を向けてみます。

相手を変えようとする前に、変わってほしいと願う前に、自分の中になにかしらの考えがあるのだということに目を向けてみましょう。相手はただ存在しているだけです。変わるべき存在がいるのではなく、その相手は変わるべきだと考える自分がいるだけです。相手を変えることはできない、でも自分は変わることができる、というのは、自分が成長して相手を受け入れられる心が持てればいい、とかそういうことではないのです。あるがままの自分、いろいろな考えや思いを持っている自分に気づく。それだけで充分です。

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他者にやさしくあるための方法は、自分にやさしくあることなんだろうとおもいます。自分が持っていないものは誰かにあげることはできませんから。

幻の栗を渋皮煮にしたら失敗した話

先日、この10年間毎年恒例になっている栗の渋皮煮をつくりました。渋皮煮は、その名の通り渋皮がとても大切です。渋皮を傷つけないように、鬼側だけを剥きます。そうして渋皮の渋みが微かに残るくらいまで何度も茹でこぼし、甘味をつけていきます。重曹を使えば時間短縮にはなるんですが、渋みが抜けすぎちゃう。使うのと使わないのでは仕上がりの味が全然ちがうのです。

というわけで今年もいつも通りに皮を剥き、沸騰させないように気をつけながら数時間茹でては水を変えてまた茹でる、を繰り返すこと5、6回。普段味見をせずに料理を作りますが、このときばかりは渋みがどのくらい残っているか茹で汁を舐めて確認します。程よい頃合いをみて、シロップで煮込みはじめ、そろそろかなというところでひとつ味見をしてみました。そうしたらなんと、栗がとっても硬いのです。ああ、栗って木の実なんだ、と実感するような硬さ。通常この時点では渋皮に守られた実の部分が柔らかくなっています。ああ、どうしたこと。

 

思えば栗ごはんを炊いた時も、栗がゴリっと硬かった…。今年の栗はいつもより長く火を入れないとだめだったんだ…。

 

今年の栗は、当然ながら去年の栗とは違います。今年の栗を今年の栗としてみていたら、栗ごはんを炊いた時点で、ああ、この栗は少し長めに加熱しないと柔らかくならないぞ、と気づいたはずです。でも、私の中にはこの農家さんの栗はこういうものだ、というフィルター(渋みが抜けるのが早く、柔らかくなるのも早い栗である)ができあがっているので、目の前の栗をちゃんと見ていないわけです。つまり、私は過去の栗の寄せ集め、自分で作り上げた幻想としての栗を調理したということ。

 

その後、圧力鍋を使ってみたり、長時間煮てみたりしましたが、今年の渋皮煮は自分にとって満足のいく仕上がりにはなりませんでした。でも、いかに自分で作り上げたフィルター越しに世界を見ているか、そのことがいかに目の前にあるそのものを味わうことを妨げてしまうかを実感するとてもいい機会になりました。

  

これと同じように、目の前にあるものを舌で味わっているはずが、実のところ思考で食べているということはよく起きます。以前仲間内で、暗闇で食事をしてみるという試みをしたことがありました。そのときにお茶として出されたものが、実はお茶の葉を入れ忘れていて白湯だったのですが、その場にいた人たちが白湯であると気づくまでにはかなりの時間がかかりました。お茶だと思い込んで飲んでいると、実のところ白湯であってもお茶として味わってしまうのです。あるいは、たとえばこのプリンはAのものよりなめらかだ、とか甘いとか、コクがあるとか、過去に食べた同じようなものと比べてどうかという判断に忙しくて、そのもの自体を味わっていないとか。

 対人関係においても同じです。自分で作り上げたその人像にとらわれて、目の前のその人自身を見ていないことは多々起きるでしょう。あの人はやさしい、賢い、時間にルーズだ……。過去のその人に対して自分で作ったフィルター越しに相手を見てしまう。あるいは、誰かと比べてAちゃんは彼からこんなプレゼントをもらってるのに、私の彼は全然そんなことしてくれない、とか、同じクラスのB君はテストで100点をとるのに、うちの息子はぜんぜんだめ、とか。

 思考は常に働き続けています。それを止めることはできません。でも、そのことに気づいていることならできます。マインドフルネスの練習(=今この瞬間にいる練習)とはまさにこれで、気づいている、ということです。マインドは常に何かをしたがります。思考を止めようとか感情をどうにかしようとか。なにかをどうにかしよう、そう思った瞬間にマインドにとりこまれてしまいます。そのまま、あるがままをただ見つめる。どうにかしようとしない。マインドにとっては苦行のようなものですが、実はそこにこそ安らぎや安定感があるのです。

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去年作った栗の渋皮煮です(笑)。比べなければ今年のものも悪くはありません。でもどうしても比べてしまう自分もいます。それはもう、仕方のないこと。共存するしかありませんね。

呼吸が変わるといろいろほんとに変わっちゃう、ということを改めて

「呼吸・整体」を教えてくださっている森田敦史先生が本を出版されました。これは人類にとってのギフトだとおもう(これまでに講座を受けてくださった方々、理解を深めるためにとてもいいとおもいます! )。

 呼吸を通して、なんとなくぼんやりふんわり語られることが多くてスピリチュアル一辺倒になりがちな「(人やものごとの)本質」をロジカルにテクニカルに語ってらっしゃる、とおもう。ほんものの実用書(読んだだけでなんとなく、自分成長したかも的な感じ、になるかもしれないしならないかもしれないけれど、結局のところ実践しなければ何も変わらないという点を明確にされている点においても)。

この本を多くの人におすすめしたい、とおもったときに森田先生との出会いについても思いがめぐり、せっかくなので書いてみました。長いです。

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森田愛子先生、森田敦史先生(あいうえを順 笑)との出会ってからの自分の変化についておもうとき、なんだかちょっともうその影響の大きさに圧倒されるような感じすらあります。出会いは2011年、友人が森田先生のところで学んでいたというのがきっかけ。私はその友人のモルモット役としてその講座に行くことになったのでした。そのときは、それだけ。その後、森田敦史先生の0学のセッションを受けたのですが、そのときも、まあそれだけ。でもそのとき、森田愛子先生の「行き詰まったらきてください、お役に立てるとおもいます」という言葉はなんとなく残っていました。

2011年頃の私は、ヨガや瞑想、呼吸法に傾倒していたし、いろいろなことはヨガでなんとかなるし、整体は自分には必要ない、という感じ。ヨガ以外にも、それまでにHIVの治療として西洋医学の薬を飲むのはやだなあというところから、いろいろいろいろやってきていました。マクロビオティック、冷えとり健康法や、ハーブや精油アーユルヴェーダなどなど。体メンテナンスオタクといったところ。言われたことはとりあえずやってみる、という精神を日本の教育を受ける中で培ったわたしは、とりあえず、言われた通りきちっとやりました。ひととおり。中でも、アーユルヴェーダとの出会いは大きかった。これについては、以前ブログにも書きました。興味のある方はこちらからどうぞ。

転機になったのは、2014年の春頃。なにかが起きたわけではないんですが、ヨガや呼吸法や、ヴェーディックな生活や、いろいろやってる。でも、1、2カ月に一度くらい、呼吸が苦しくなることがある。前屈だって硬いままだし、花粉症も完治しないし、冷え性もあるし、生理痛もある。なんでだろう。うーん、これはちょっと人の意見を聞きたい、そうおもって、ヨガのプライベートレッスンを受けました。受けている最中に、何となく、あ、これ違うな、という感覚があったんですが、まあ、そう思ったとしても、言われた通りきちっとやれるタイプなんで、やったわけです。でもやっぱりとくに変化はなかった。そんなとき、愛子先生の言葉をふと思い出しました。「行き詰まったらきてください、お役に立てるとおもいます」。うん、これは完全に行き詰まったぞと。そうして治療院の扉を叩くことになりました。

愛子先生による治療には、先生が治療をストップされた今年の梅雨まで通っていました。最初の頃はだいたい2週間おきに通い(最終的には2カ月に1回くらい)、その都度の宿題(いくつかの動きを習い、それを日々実践する)をこなしていました。最初の数カ月で、みるみる、という言葉がぴったりの体の変化を体感しました。足の爪がきれいになって、冷え性もなくなり(この時点で冷えとり健康法とおさらば)、髪の毛や肌のつやがよくなって、生理痛は軽くなり、体のラインも柔らかくなるなどなどなど。

呼吸が変わったことによるこれらの変化だということが今はわかりますが、当時は、自分の中で何が起きているのかを知らず、ただ教えていただいたいくつかの動きを日々実践していただけ。そうして、ときを経て、どんな経緯だったか思い出せないのだけれど、2015年秋、森田敦史先生の講座で「呼吸のニュートラル」という概念を知ることになります。わあすごい!とか、目から鱗!とかそういう華やかな感じではなく、うへえええええというかんじでした。なんかもう、いろいろいろいろやってきたことが、全部つながった、と。ずしーんときた。愛子先生の治療だけでなく、ヨガとかアーユルヴェーダとか、ヴェーダとか、ヤマニヤマとか、NVCとか、マクロビとか瞑想とかぜんぶ。ぜんぶです。うへえええええ。これか、と。いろいろいろいろやってきたからわかることなのかもしれないけど、でも、いろいろいろいろやんなくってもよかったんじゃ? というなんかもう爽快感のある、うへえ。

私にとって大きなギフトだったのは、愛子先生の治療を通して先に体で「呼吸のニュートラル」を知り始めていたということ。そのあとに、知識としてのそれを知ったので、急に統合された感じ。その後ほどなくして、敦史先生の「呼吸・整体」の連続講座に参加し、AA(Aiko Addiction:愛子先生の治療への依存 笑)からも無事抜け出し、自分で自分の面倒を見ること、自分で自分に責任を持つ、ということについて肚をくくりながらも、他者の力を実感し、ああやっぱり人という字は、支え合って人となる…なんて金八先生に思いを馳せ、支え合うことが自立なんだなとか、自分のマインドのクセとか、体の使い方のクセとか、自分の呼吸を見ていく中でいろんなことが起きました。呼吸を見ようと思うと、結果的に全部みることになっちゃう。バガヴァッド・ギーターで言っている「マインドや体をつかって、マインドや体から自由になる」というのはこういうことか、と。それから、

「呼吸のニュートラル」という羅針盤ができたことで、マインドフルネスの質ががらっと変わりました。だから、「呼吸のニュートラル」を知る前と後では、もう格段に、いろんなことが違う。結果的にヨガインストラクターの看板をおろし(私が伝えたかったことはヨガでは難しいとおもったので)、肚から生きる、まんなかに還る、をキーワードに活動していくぞと肚をくくり、そうしたら、呼吸の講座をという声をかけていただいたりするようになった、というところです。

私の講座を受けるより、森田先生方の講座を受けたほうが…と思うこともなくはないのだけれど、旅の途中の私だからできることもあるだろうし、心をどうにかしたいと思って色々やってきた経緯もあるし、体を変えたい、というよりは心をどうにかしたい、という人と近いところにいるような気もするし、なにより私は愛子先生の治療や講座も受けているし、敦先生の講座も受けている(これはお二人にはできない経験、しかも現在進行形)! この経験は宝だし、だからこそのなにかがあるかもしれない、ともおもっている次第。その何かのひとつは、受けてみて超よかったから、一緒にやってみようよ!というお誘いをしたい気持ちが強いということだとおもう。編集者だった頃は、広く浅くいろいろな超いいよ!を伝えてきたけれど、いまは、ひとつに絞って深く伝えるということがおもしろい、というかんじです。

私が実感していて、ここ超シェアしたい!という部分を敦先生の著書から抜粋。

「たとえば、いわゆる悟りを開いたような、何かの極致に達した偉人・哲人たちの言葉にも、よく「ただ在るがままに」「自然体でいる」といったことが重要だとされます。しかし、さまざまな本を読んだ人であればわかるとおもいますが、この言葉は注意が必要です。「在るがままに生きる」「自然体でいる」というのは、究極に大きなスケールの所作で、それは実は小さなテクニカルな所作がしっかりできている人だけが実感できる世界です。」

「人間の体は呼吸状態に合った肉体に変化します。つまり、息が上がった呼吸状態ですと、その呼吸しようの筋肉・神経・関節になり、またその呼吸仕様の動きになります。(中略)だからこそ体を動かし、呼吸法をすることによって、新しい呼吸仕様の体に変化することをより加速的に促すのです。(中略)ふだんの呼吸状態が変わってくると、そしてふだんの呼吸状態への理解が深まると、そこからさまざまなモノ・コトの本質が見えてきます。」

「15年以上健康の世界に携わって多くの不調に悩む人たちと接してきた経験から、はっきりと断言できるのは、普段の自分に気を使えない人、些細なことを雑にする人は治りにくいということです。」

 

そして、これまでにも講座などでご紹介してきましたが、愛子先生の著書はこちらです。一家に一冊どうぞ。

 

いつもの呼吸で病気を流す - 酸欠が治れば自然治癒力はぐんぐん上がる!  - (美人開花シリーズ)
 

 

深呼吸のレッスン

深呼吸のレッスン

 

 

お二人のサイトはこちら。

森田愛子先生

自分の呼吸と日常を整える呼吸・整体K-Raku Style | 身体を育てなおす K-Raku style Yoga & Therapy & Learning

 

森田敦史先生

呼吸整体勉強会