Forget for get

呼吸が変わるとラクになる

お金を使うときの自分のパターンに気づいてみる

自分に気づいていること。気づくための時間、瞑想やマインドフルネスの時間をとるのではなく、常に気づいていること。これは、マインド(思考や心)の支配やパターンから自由になるための近道です。

とはいえ、いつなんどきでも気づいているのは最初はなかなか難しいものです。そこで、マインドフルネスのクラスなどでは、まずは気づいている時間やシーンを区切ることをおすすめしています。たとえば、朝食の間、歯磨きのとき、食事の最初の5分間、バスタイム、家から駅までの道のりなど、そのときだけは自分の感覚、思考、感情に気づいているようにする。そして、気づくという感覚を身につけ、その時間を増やしていくのです。

体感覚、五感で感じる刺激に気づいている練習は、以前ご紹介した食べる瞑想や歩く瞑想がトライしやすいでしょう。体感覚や五感に耳をすませるのは、今この瞬間にいるための方法です。過ぎ去った過去でもなく、まだやってきていない未来でもなく、今この瞬間という現実を生きる。いつでもその状態であれば、それはつまり、マインドから自由になっているということです。なぜなら、マインドは過去、あるいは未来という幻想を生み出し、その幻想の中でのみ生きているものだからです。

 そして、自分の思考や感情に気づいていることもマインドの支配から抜け出す方法のひとつです。誰かの言動によって心や思考が動いたときや、あるいは自分が何かをしているときの自分の思考や感情。たとえば、待ち合わせの相手が約束の時間より遅れてきたとき。イライラしたり、なんてだらしないひと! なんていう思考が湧いてきたとしたら、そのことにただ気づきます。善し悪しはなく、ただそれがあることを認めること、気づくことは、とても大切です。これまでにも、何度かそんなことをお話ししました。今回は、そんなふうに感情が動くときだけでなく、何気ない日々の自分の思考にも目を向けてみることをおすすめしたいとおもいます。

たとえば、日々の買い物。自分にとって高額のものを買うときには特に、自分の中で対話が起こることに気づきやすいかもしれません。本当に必要? 贅沢すぎない? もっと安くていいものがあるんじゃない? などなど。一方で、自分に取って安いと思えるものを買うときにはどうでしょうか。

たとえば、スーパーで値引きになっているお惣菜や、ペットボトルの飲み物、ちょっとしたお菓子。特に、値引きになっているものを買うときに自分の中で起きていることを見てみるのはおもしろいものです。グリーンサラダが食べたいなと思ってお惣菜コーナを見ていたとします。すると、グリーンサラダは1000円だけれど、通常1500円の温野菜サラダが値引きになって500円で売っている……。グリーンサラダが食べたかったけれど、温野菜サラダのほうがお得だし、こっちにしよう。そんなふうに、自分の「食べたい」を、金額を理由にいとも簡単に却下し、そんなに欲しくもなかったものを金額を理由に買ってしまう。そんなことはないでしょうか。

金額を理由に選ぶことが良いとか悪いとか、そういうことではありません。ただ、金額を理由に自分が本当は欲しいと思っていたものを買わない、あるいは、欲しいと思ってなかったものを買うことがある、そういうパターンがあるということに気づいていましょう、ということです。そうして、そのパターンで買ったものを実際に食べたり(着たり、使ったり)するときに、どんなものが自分の中に湧いてくるかにも気づいていましょう。もし、それがあまり心地の良くないものであったなら、次からはそのパターンを変えてみればいいのです。安さを理由に買い物をするくせがあるなら、初志貫徹、欲しいと思ったものを買ってみる。そしてまた、自分の中に起きるものに目を向けてみる。

何か特別なことをしなくても、日常の中に自分に気づく要素はたくさんあるんです。

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金額の大小に関わらず、買い物で迷ったときの指針にしているのは「悩む理由が金額だったら買う、買う理由が金額だったら買わない」です。食材を買うときは特に「食べたい」「おいしそう」が大事。

 

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掃除しようぜ!

2016年も残すところ1カ月とあとすこし。12月、師走になれば文字通り慌ただしく駆け抜けるように日々が過ぎていきます(もっとも、師走でもないのに瞬きをしている間に終わってしまったんじゃないかという月もあるのだけれど)。わたしにとって年末の行事といえば、大掃除。クリスマスとか忘年会とかじゃなくて、大掃除。編集者として働いていた頃にも、年末進行で死にかけ状態であっても大掃除だけはしていたのは、母の影響でしょう。

1年を締めくくって、新しい年を迎えることは、大きなイベントです。すっきりと整頓されたうつくしい状態で新しい年を迎えるのは、清らかなものです。それと同じように、1日を締めくくって、新しい一日を迎えるのも日々のイベントだとおもうのです。人生は、日々の積み重ね。その日々を大切にするのは、自分を大切にするということでもあります。

人は、環境に大きな影響を受けます。住まいはその人を表すと言うのは、そのとおりで、心が乱れているときには家の中も乱れます。清潔で整頓された場所に行くと身も心もスッとする感じがするのは、心身がその場所の状態に影響を受けているから。つまり、うつくしくととのった部屋で暮らせば心身もととのいやすくなりますし、散らかった場所で暮らせば、心身もやはりそのようになるということです。部屋も心身も(ついでにお金も、なにごとも)、循環か滞りか、です。

そんなわけで、なんとなく落ち着かないな、というときは何も考えずに家の中を整理整頓。心の乱れをどうにかするのは大変ですが、家の中の乱れを正すことは多少は楽にできるでしょう。清潔で整頓された場所で暮らすことは、マインドフルに日々を過ごす大きな後押しになります。それに、日々、小掃除をしていると、大掃除も楽になります。

まずは、1日を終えるときに、部屋を整理整頓するところからはじめましょう。一年の計は元旦にあり、といいますが、一日の計は朝にあるようにおもいます。きちっと掃除をした完璧な状態を目指す必要はありませんが、人を招き入れても恥ずかしくない程度には部屋を整頓して眠りにつきます。自分を大切に扱うということは、自分が心地いい状態をつくってあげるということ。目覚めたときの自分が心地のいい状態をつくってから眠りにつくと、不思議と眠りも深くなるものです。

たとえば、キッチン。食材を手に入れて、調理をし、食べ、そして片付けるところまでが食の事、食事です。食べ終わってそのままゴロンとしたくなるかもしれませんが、使った調理器具や食器をきちんと洗って食器棚にかたづける。食器を洗ったついでに、シンクもさっとこすり、コンロ周りも拭いておきます。ここまで終えて、食事の終了です。

お風呂も同じように、入った後にそのままさっと洗います。温まっている状態、濡れたままの状態のほうが汚れは落ちやすく、手間もかかりません。バスタブを洗う無理な姿勢で腰を痛めることもないでしょう。ちなみに、無理な姿勢をとれば呼吸も乱れます。体のどこかを痛めれば呼吸も心も乱れます。

汚れは最初は、小さなチリやホコリです。そこに油や皮脂などが重なることでしつこい汚れになっていきます。チリやホコリであれば、はたきでさっとひと払いすればきれいになります。心も同じで、最初はちいさな違和感だったものが、だんだん大きくなっていくものです。汚れも心の違和感も溜めないこと。日々を心地よく暮らすコツですね。

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猫には暦は関係ないようで、いつでもマイペース。でも、新月や満月のときには様子が変化します。私も、その頃は心身に変化が在ります。自然環境に影響を受けるのは、どうにも避けようがありません。

 

 

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なにかをどうにかしようと思っている限りは結局のところ、苦しいところにい続けることになる

「心をととのえる」。マインドフルネスやヨガ、瞑想などが一般的になり、こんな言葉をよく見聞きするようになりました。「心をととのえる」。この言葉からどんな状態をイメージするでしょうか。どんなときも心穏やかで、冷静、感情の振り幅がないような、そんな感じかもしれません。ついカッとなって声を荒げてしまったり、なんだかわからないけどいろいろなことにイライラしたり、落ち込んだり、不安になったり……。そんな感情の波にもまれることなく、ピースフルな状態でしょうか。

マインドフルネスとは、いまここにあるものを、そのままに体験すること、そのことに気づいていることです。どんな大きな怒りがあろうが、悲しみがあろうが、その感情をただ体験する。その怒りをどうにか鎮めようとか、悲しみをなくそうとか、そういうことはしません。マインドフルネスは、心を穏やかにするものではないのです。結果的に、心が穏やかになる、ということが起きるかもしれませんが、心を穏やかにするものではないのです。

心や思考は、とにかくなにかをしたがります。「私には何もかもが不足している」とか「自分には価値がない」という観念が根っこにあるので、その不足、欠乏を埋めるために、また、達成感を感じるため、自分の存在の意義を見いだすために何かを「する」。

こんな自分は、ダメなんだ(=自分は欠乏している)。だから、マインドフルネス(やヨガや瞑想や、あるいはなにかの講座やセミナー)で、その自分をどうにかしなければ。存在する意味のある自分にならなければ。そんなふうに思考が判断し、マインドフルネスの練習をせっせとしたりするわけです。そうして、なんだか自分が成長したような感じがして(達成感)、満足します。でも、根っこにあるのは欠乏感ですから、まだこんなんじゃだめだ、とさらに頑張る、達成感、欠乏感、頑張る……ということがおきてきます。永遠のループです。

なにかをしようとする。なにかをどうにかしようとする。そうなると、思考の罠にかかって、永遠にそこから出ることができません。とにかく、なにかをしたいのが思考だからです。つねに、なぜこれが起きたんだろうと分析したり、どうすればここから一歩進んだところにいけるだろうかと考えたり、あのいつも落ち着いているひとは、どうしてあんなふうにいられるのだろうかと比較したり、とにかく忙しく働いています。思考の根っこにあるのは欠乏しているという考えですから、思考から抜け出さない限りはずっと苦しいわけです。

マインドフルネスの練習では、そういった思考の働きも含め、自分に起きることをただ体験します。それを消そうとかコントロールしようとか、そういう思考の喜ぶことはしません。思考から離れて自分に起きることをただ体験するために、体の感覚を利用します。というか、せっかく体があるのですから、きちんと「体」験すればいいわけです。

そして、思考の弱点のひとつには、過去と未来にしか存在できないということがあります。過去の記憶をもとに、なにかを恐れたり、未来のことを考えて不安になったり……。一方で、体の感覚は今この瞬間の現実です。たとえば、今スマホでこれを読んでいたとしたら、そのスマホを持つ手の感覚を感じることができるでしょう。でも、昨日の手のひらの感覚は感じることはできないですよね。思い出すことはできるかもしれません(思い出す=思考です)が、感じることは不可能です。つまり、体感覚として物事を体験するとき、必然的に今この瞬間にいることになるわけです。そうすると、自動的に思考から離れざるをえなくなるというわけです。思考が持っている欠乏感という根っこをどうこうしなくても、それに影響されないところに気づいたらいた。そんな感じでしょうか。

なにかをどうにかしよう。そう思っている限りは結局のところ、苦しいところにい続けることになります。今苦しさを感じているのだとしたら、それをどうこうしようとするのではなくて、ただ体験する。マインドフルネスの練習はとっても地味なんです。

 

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自分を受け入れるというのは、ダメなところを好きになる、とかそういうことではなくて、ダメとか良いとか判断なしに、ただ、そんな自分がいるなあ、と認める、ということです。

 

 

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『バガヴァッド・ギーター』がおしえる3種類のしあわせ

ヨガの教典のひとつである『バガヴァッド・ギーター』。王子アルジュナと、彼の導き手である神様クリシュナとの対話で構成された叙事詩です。ガンジーが「スピリチュアルディクショナリー」と呼んだり、アインシュタインが愛読していたり、ジョージ・ハリスンが歌詞の元にしたりと、結構いろんな人が読んでいるみたいです。生きるための智慧がちりばめられたお話です。

この『バガヴァッド・ギーター』では、しあわせには3種類あると書かれています。まず1つ目が「健康、経済、人間関係がうまく回ること」。

健康で大きな病気や怪我もなく、裕福な生活をしている。たとえば、庭付きの一軒家に住んで、季節ごとに好きな洋服を買い、話題のレストランでおいしい料理を食べ、たまには海外旅行にも行く。そんな感じでしょうか。そして理想的なパートナーがいて、子どもも特に問題を起こすことなく健やかで、両親や親族との人間関係もうまくいっていて、仕事やコミュニティでの人間関係も円滑。そんなイメージでしょうか。これが達成されれば充分な感じがしてしまいますね。そして、一般的な「しあわせ」な人生のイメージはこれかもしれません。

2つ目は、「これらに執着せず、物質的なことに縛られないこと」。

生老病死、生まれること、老いること、病気になること、死ぬことは自分ではどうにかすることはできません。それに、すべては変化していきます。たとえば、庭付きの一軒家を得たとしても、火事や災害で失うことがあるかもしれません。理想的なパートナーが、ある日心変わりをしたり、交通事故で死んでしまったりするかもしれません。子どもやそのほかの人間関係も同じです。健康も経済も、人間関係もすべては変わりゆくものです。それらを得ることでしあわせになった気分になりますが、それを失う恐れも生まれてしまいます。だから、それらを得ることは、苦しみを得ること。だから、それらに執着せず、苦しみから自由になることでしあわせになろう、そんな感じです。

そして、3つめは「何にも執着せず、この世から自由になろうとも思わないこと」。

1つ目のしあわせは、何かを得ることでのしあわせ。2つ目は、執着をしないことで自由になるしあわせでした。3番目は、何かを得る執着も、執着をしないことへの執着もどちらもない状態です。そもそもしあわせになろう、という意識がないような状態です。

すべての出来事を慈悲として受け取るため、自分がどんな状況に置かれているかが自分の「しあわせ」とはリンクしていません。むしろ、どんな状況にあっても「ああ、しあわせ」と受け取れるしあわせでしょうか。

しあわせとは「幸せ」とも書きますが「仕合せ」とも書きますね。仕合せとは、し合わせたこと。運命や巡り合わせ。偶然巡りあった良いことも、悪いこともすべて「し合わせ」ということです。つまり、しあわせとは、自分にとって都合のいいことだけではないわけです。雨が降っても、晴れても、どちらにしても「し合せ」だということに気づいていると、雨が降っても晴れても、しあわせなわけです。

『バガバッド・ギーター』では、どのしあわせが良いとか悪いとか、そういうことは言っていません。ただ、しあわせっていっても、まあ3種類あるんだよね、とおしえてくれています。そして、どれを選んでもいいんですよ、と。そして、それぞれのしあわせを得るために必要なことも教えてくれています。1つめを得るためには、行動すること。2つめは学ぶこと。3つめは慈愛です。ちなみに、ヨガで言えば、それぞれカルマヨガ、ギャーナヨガ、バクティヨガにあたります。現代の体を使う「ヨガ」はヨガのほんの一部で、ヨガの世界ってほんとに深淵なのです。

マインドフルネスの練習をしていくと、3つめのところが体感的にああ、そうだよな、とわかるようになる気がします。まあ、わかるんですけれど、ずっとその状態でいられるわけでもなく、恋がしたい!とか素敵な洋服がほしい!そしたらしあわせ!とかも時折おもったりするわけです。心ってすげいな。

f:id:remembering:20161101112956j:plain自然がつくりだすものの繊細さや完全さって、なかなかに「有り難い」ことにおもいます。「し合せ」もやっぱり、有り難いこと。でもすべてのことは「し合わせ」。つまり、なんでもかんでもしあわせだし、なんでもかんでもありがたいことなんですね。

 

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心から味わって食事をする。毎日できるマインドフルネスの練習です。

新米がおいしい季節、食欲の秋ですね。暑い夏には食欲が落ち、涼しくなってくると食欲が出てくるのは多くの人が感じていることだと思います。こういう、お腹が空いたな、とかあんまりお腹が空かないな、という体の感覚に耳をすませることはマインドフルネスの練習においてとっても大切です。

思考が優先して働いている現代では、物事の判断基準が「正しい」か「間違っている」かになりがちです。そうすると、頭ばかりを使うことになり、思考の筋肉(そんなものがあるかどうかは別として)がどんどん育って、体の感覚がどんどん鈍くなっていってしまいます。私たちを苦しめているのは私たち自身の思考です。そして、正しい/間違っているを基準に物事を選ぶ、つまり頭を使えば使うほど、どんどん苦しくなっていく、ということです。

頭を休ませるためには「頭を休ませる」をすればいいのですが、いざ「頭を休めよう」とすると、頭を休ませるためにはどうすればいいのだろうか、とさらに頭を使い始めてしまいます。そんなときに役に立つのが五感を使うこと。五感から入ってくる刺激をただ感じることです。日常生活の中で五感をフルに使いやすいのは食事です。目で見て、香りを嗅いで、口に入れれば、食感があり、音があり、味があります。

食事をするときは、食事をすることだけに集中します。まずはほんとうに今、食べたいかどうか? お腹が空いているかどうか? お腹が空いていなくても、思考は「今食べておかないと食べる時間がない」とか「食べないと元気が出ない」とかいろいろ食べる理由を生み出します。

 

でも、体は答えを知っています。

 

食べることに決めたらスマホや携帯、PCなどは目に入らない場所におくか、どうしても気になる場合には食事の間だけ電源をオフ。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚に意識を向けながら味わって食べます。味わってみて、おいしくないな、と感じたらもしかしたらそれは自分には必要のないものかもしれません。

食べ終わったときの体の感覚はどうでしょう。食事はエネルギーを補給するためのものです。食後、エネルギーに満ちて動き出したくなるような感覚になるかどうかは自分に必要なものを適量食べたかの判断基準になります。食事を通して気づけることはたくさんあります。そして、体感覚を取り戻すことは、自分に気づくための第一歩です。

体感覚に気づくことは、マインドフルネスの練習においてとても大切なことです。体感覚に気づくということは、自分に気づくということだからです。たとえば、感情は体感覚として現れます。切ないときに胸がきゅーっとなるというのはよく起きることのように思いますが、怒りや悲しみも体に、体感覚として現れます。

感情を体感覚として受け止める。体感覚なしに、ただ感情そのものを受け止めようとするとどうしても思考に走ってしまい、結局のところ感情に蓋をするということになってしまいがちです。あるいは、その感情の意味を追求したり。

でも、感情=体感覚ということが体でわかると、それをただそこにあるものとして受け止めやすくなります。たとえば指を切って痛いとき。それについてあれこれ詮索せず、ただ「痛い」とおもうでしょう。そして、あのときああしていれば、切らなかったかも、ああなんて不注意だったんだろう。そんな考えも出てくるかもしれません。そうしてその考えによってだんだんイライラしてきたりする、ということが起きるかもしれません。でも、考え始めなければ、指を切った痛みというただそれがあるだけです。

感情も同じで、悲しみも怒りも、体感覚としてただそれがあるだけです。良いも悪いもなく、ただその感情がある。感情を体感覚としてとらえるとき、そんなふうに感情をみることが楽になります。でも、感情についてあれこれ考え始めると、たとえば、ああしていればこんなことにならなかったかも、ああ、なんて不注意だったんだろう―どんどん思考にとりこまれて感情から離れてしまいます。でも、ああ、悲しみがある。そんなふうにその感情を体として体験すること、認知することでこそ、その体験が完了します。いつまでも悲しい、苦しい、そんなときはたいてい、その感情の火に思考が油を注いでいるときです。

アーユルヴェーダでは食べたものがきちんと消化されないと、それが毒素となり病気になると言っていますが、未消化物とは、消化できなかった食べ物だけでなく、なかったことにされた感情も含まれます。つまり、感情をきちんと完了させることは心身ともに健康でいるためにも大切なことです。

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新米がおいしい季節です。噛めば噛むほど甘くなるお米を、じっくりゆっくり噛んで、その味わいを楽しむのは豊かな時間だなあとおもいます。

 

その怒りも悲しみ喜びも結局のところ自作自演

誰かに対して怒りや、イライラを感じたとき。この人がこうじゃなければ、この人がもっとこうだったら、こんなに感情が揺さぶられなくてすむのに……。そうして、でも人は変えられないわけだし、じゃあどうしたらいいんだろう……。そんな無限のループに陥ることはないでしょうか。

怒りやイライラなどの感情の裏側には、多くの場合自分の考えがあります。そして自分は自分のその考えが「正しい」と思い込んでいるので、相手がその「正しさ」の規範から出たときに「それは間違っている」という考えが瞬時に立ち上がり、怒りやイライラを生み出したりします。

たとえば「家族は協力しあって当然だ」というような考えがあったとします。そもそもこれが自分の「考え」だということがしっくりこない場合もあるかもしれません。家族が協力しあうのは当たり前だし、自分の「考え」ではなくて、世の中の理でしょう、多くの人が同意するはず、というような「考え」も浮かんでくるかもしれません。そこには「家族は協力しあうべきだ」だけでなく、「多くの人がそうだといっていることは正しい」という考えもあるということですね。

さて、「家族は協力しあうべきだ」の考えがあった場合に、家族で出かける時間に夫がテレビを見ていたり、ゴロゴロしていたりしたとしたらどうでしょうか。きっと怒りやイライラがわいてくるでしょう。「なんで手伝ってくれないの!」「自分のことしか考えてない!」そんな言葉もでてくるかもしれません。夫がもっと協力的だったらもっと楽に暮らせるのに……。でも、人は変えられないっていうし……。

でも、その根っこにあるのは、夫の言動ではなく「家族は協力しあうべきだ」という考えです。もしも「家族はそれぞれ好きなことをすべきだ」という考えがあったとしたら、夫のその言動は喜ばしいものになるでしょう。感情が湧いてきたとき、その矛先が相手に向きがちですが、一度立ち止まって、その根っこが自分にあることを思い出してみる。それは自分とともにあること、自分にやさしくするということだとおもうのです。

怒りが湧いてきたりイライラしてきたりしたら、一旦停止。感情に流されず、自分が選んだ流れに乗るための技術です。感情や思考はどんどん前に前に進もうとしますから、まずは一旦停止です。でも、思考を一旦停止するのは難しいですから、体を使います。つま先立ちになって、とん、とかかとを床に下ろすのはとても効果的です。何度かとん、とん、とかかとをおろしましょう。今この瞬間に碇をおろすようなイメージです。

感情を相手にぶつける前に、まずは立ち止まって自分に怒りがあることを確認します。そうして、さらにその裏にある「家族は協力すべきだ」という考えがあることも認めます。当然のことながら、自分と相手は違う人間ですから、自分の考えを同じようにそっくりそのまま相手に持ってもらうことはまあ、無理でしょう。たとえ「家族は協力すべきだ」という考えが同じようにあったとしても、どんなふうに協力するのかについてはそれぞれのやり方があります。出かける準備を手伝うことを協力とみなす場合もあれば、休日にたっぷり休息をとることを温かく見守ることを協力とみなす場合もあります。相手と自分はちがう。それをふまえた上で、じゃあ自分は一体何を求めているんだろう、ということに目を向けてみます。

相手を変えようとする前に、変わってほしいと願う前に、自分の中になにかしらの考えがあるのだということに目を向けてみましょう。相手はただ存在しているだけです。変わるべき存在がいるのではなく、その相手は変わるべきだと考える自分がいるだけです。相手を変えることはできない、でも自分は変わることができる、というのは、自分が成長して相手を受け入れられる心が持てればいい、とかそういうことではないのです。あるがままの自分、いろいろな考えや思いを持っている自分に気づく。それだけで充分です。

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他者にやさしくあるための方法は、自分にやさしくあることなんだろうとおもいます。自分が持っていないものは誰かにあげることはできませんから。

幻の栗を渋皮煮にしたら失敗した話

先日、この10年間毎年恒例になっている栗の渋皮煮をつくりました。渋皮煮は、その名の通り渋皮がとても大切です。渋皮を傷つけないように、鬼側だけを剥きます。そうして渋皮の渋みが微かに残るくらいまで何度も茹でこぼし、甘味をつけていきます。重曹を使えば時間短縮にはなるんですが、渋みが抜けすぎちゃう。使うのと使わないのでは仕上がりの味が全然ちがうのです。

というわけで今年もいつも通りに皮を剥き、沸騰させないように気をつけながら数時間茹でては水を変えてまた茹でる、を繰り返すこと5、6回。普段味見をせずに料理を作りますが、このときばかりは渋みがどのくらい残っているか茹で汁を舐めて確認します。程よい頃合いをみて、シロップで煮込みはじめ、そろそろかなというところでひとつ味見をしてみました。そうしたらなんと、栗がとっても硬いのです。ああ、栗って木の実なんだ、と実感するような硬さ。通常この時点では渋皮に守られた実の部分が柔らかくなっています。ああ、どうしたこと。

 

思えば栗ごはんを炊いた時も、栗がゴリっと硬かった…。今年の栗はいつもより長く火を入れないとだめだったんだ…。

 

今年の栗は、当然ながら去年の栗とは違います。今年の栗を今年の栗としてみていたら、栗ごはんを炊いた時点で、ああ、この栗は少し長めに加熱しないと柔らかくならないぞ、と気づいたはずです。でも、私の中にはこの農家さんの栗はこういうものだ、というフィルター(渋みが抜けるのが早く、柔らかくなるのも早い栗である)ができあがっているので、目の前の栗をちゃんと見ていないわけです。つまり、私は過去の栗の寄せ集め、自分で作り上げた幻想としての栗を調理したということ。

 

その後、圧力鍋を使ってみたり、長時間煮てみたりしましたが、今年の渋皮煮は自分にとって満足のいく仕上がりにはなりませんでした。でも、いかに自分で作り上げたフィルター越しに世界を見ているか、そのことがいかに目の前にあるそのものを味わうことを妨げてしまうかを実感するとてもいい機会になりました。

  

これと同じように、目の前にあるものを舌で味わっているはずが、実のところ思考で食べているということはよく起きます。以前仲間内で、暗闇で食事をしてみるという試みをしたことがありました。そのときにお茶として出されたものが、実はお茶の葉を入れ忘れていて白湯だったのですが、その場にいた人たちが白湯であると気づくまでにはかなりの時間がかかりました。お茶だと思い込んで飲んでいると、実のところ白湯であってもお茶として味わってしまうのです。あるいは、たとえばこのプリンはAのものよりなめらかだ、とか甘いとか、コクがあるとか、過去に食べた同じようなものと比べてどうかという判断に忙しくて、そのもの自体を味わっていないとか。

 対人関係においても同じです。自分で作り上げたその人像にとらわれて、目の前のその人自身を見ていないことは多々起きるでしょう。あの人はやさしい、賢い、時間にルーズだ……。過去のその人に対して自分で作ったフィルター越しに相手を見てしまう。あるいは、誰かと比べてAちゃんは彼からこんなプレゼントをもらってるのに、私の彼は全然そんなことしてくれない、とか、同じクラスのB君はテストで100点をとるのに、うちの息子はぜんぜんだめ、とか。

 思考は常に働き続けています。それを止めることはできません。でも、そのことに気づいていることならできます。マインドフルネスの練習(=今この瞬間にいる練習)とはまさにこれで、気づいている、ということです。マインドは常に何かをしたがります。思考を止めようとか感情をどうにかしようとか。なにかをどうにかしよう、そう思った瞬間にマインドにとりこまれてしまいます。そのまま、あるがままをただ見つめる。どうにかしようとしない。マインドにとっては苦行のようなものですが、実はそこにこそ安らぎや安定感があるのです。

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去年作った栗の渋皮煮です(笑)。比べなければ今年のものも悪くはありません。でもどうしても比べてしまう自分もいます。それはもう、仕方のないこと。共存するしかありませんね。