効率や合理的であること、より早く確実に結果を出すこと。美徳とされているこれらを求めることで、何を得て何を失うんだろう。
外なる社会の日程表は守るが、内なる時間、心の時間に対する繊細な感覚を、わたしたちはとうの昔に抹殺してしまった。個々の現代人には選択の余地がない。逃れようがないのだ。わたしたちはひとつのシステムを作り上げてしまった。ようしゃない競争と殺人的な成績一辺倒の経済制度である。(中略)一緒になってやらない者は取り残される。昨日モダンだったものが今日は時代おくれと言われる。一人が駆ける速度を高めると、みんな速く走らなければならない。それを進歩とよんでいる。
『エンデのメモ箱』(岩波現代文庫)
わたしたちは、なぜだかいつも急いでいます。家を出る前で時間がない、というのであればともかく、特にその後の予定がなくても、すべきことはさっさと終わらせようとしてしまいます。なんにつけても時短が重宝されるようです。でも、そうして数分を節約することによってなにが得られるのでしょう。時間を貯めておくことはできません。それがどんなことであっても、目の前のことを丁寧に、自分の心身に気づきながら行ってみる。それはつまり、今この瞬間を生きるということです。
効率や合理的であること、より早く確実に結果を出すこと。美徳とされているこれらを求めることで、失うものは思っているより大きいのだろうとおもいます。前へ、先へ、早く、もっとよく。行き着いたところで得られるものは、さらなる前へ、先へ。もっと、もっと、もっと!
それはちょうど、景色を見ることもなく、一心不乱に頂上を目指して山を登り、頂上にたどりつくとさらに高い山が目に入って、ああこんどはあれに登らないと。そんなふうに高みを目指すようなもの。
でも、どんなふうに山を登るかは自分で決められることです。山道で出会う草木や花々、自然の匂いや風、光を味わいながら頂上へ向かいながらも、ひょっとして途中で下山してもまあいいか、そんなふうに気楽に歩を進めてもいいわけです。
スピードに乗っているときは、自分を見失いがち。山道を転げ落ちるかのように、ただ足が前に出ていくようなときには、一旦停止して内省する時間を持つ必要があります。もしかしたらどんどん追い越されるかもしれません。時間がかかったり、そのことをけなす人もでてきたりするかもしれません。それでもいいから自分らしく歩くぞという意志も必要でしょう。
ここ数日、秋の気配がよりはっきりしてきたような感じがします。人間の身体を含む自然は、移ろうこと、変化し続けることがその本質なのだなあとしみじみと感じます。
環境も自分自身もどんどん変化するからこそ、1日の中に少しだけでも立ち止まる時間をつくることは自分をまんなかに戻すのに有効だなと思います。川の流れに乗って流れていくだけでなく、その流れを俯瞰して見つめることで落ち着いて自分の道を歩けるのだろうと思います。
静かに座って自分の呼吸を感じ、自分のまんなかに戻る時間の豊かさははかりしれません。ついちゃんとやらないと、と頑張ってしまいますが1週間に1度70分座るよりも、5分でも10分でも日々の生活に取り入れてみるのがおすすめです。
そうはいっても、なかなか時間がとれない、という声もよく聞きます。私が最近気に入っているのは、朝の掃除の時間を特にマインドフルに行うこと。自分の呼吸に気づきながら掃除機をかけます。掃除機をかけるためには必要のない力みを発見したり、ちょっとしたものを動かすのを面倒だなと感じていることに気づいたり。ぞうきんがけのときには、一歩一歩の感覚を大切に前に進みます。肩や背中の感覚、呼吸にも意識を向けながら、一歩一歩。
こんなふうにするととても時間がかかりそうに思えるかもしれませんが、急いで掃除をするのと、たいしてかかる時間は変わりません。家も心身もすっきりするので、むしろ効率的だなとおもいます。
北岳に登頂し、山頂から朝日を富士山とご来光を臨んだときの1枚。北岳は今まで登った中でいちばん好きな山。久々に、山に登りたいなあ。