幻の栗を渋皮煮にしたら失敗した話
先日、この10年間毎年恒例になっている栗の渋皮煮をつくりました。渋皮煮は、その名の通り渋皮がとても大切です。渋皮を傷つけないように、鬼側だけを剥きます。そうして渋皮の渋みが微かに残るくらいまで何度も茹でこぼし、甘味をつけていきます。重曹を使えば時間短縮にはなるんですが、渋みが抜けすぎちゃう。使うのと使わないのでは仕上がりの味が全然ちがうのです。
というわけで今年もいつも通りに皮を剥き、沸騰させないように気をつけながら数時間茹でては水を変えてまた茹でる、を繰り返すこと5、6回。普段味見をせずに料理を作りますが、このときばかりは渋みがどのくらい残っているか茹で汁を舐めて確認します。程よい頃合いをみて、シロップで煮込みはじめ、そろそろかなというところでひとつ味見をしてみました。そうしたらなんと、栗がとっても硬いのです。ああ、栗って木の実なんだ、と実感するような硬さ。通常この時点では渋皮に守られた実の部分が柔らかくなっています。ああ、どうしたこと。
思えば栗ごはんを炊いた時も、栗がゴリっと硬かった…。今年の栗はいつもより長く火を入れないとだめだったんだ…。
今年の栗は、当然ながら去年の栗とは違います。今年の栗を今年の栗としてみていたら、栗ごはんを炊いた時点で、ああ、この栗は少し長めに加熱しないと柔らかくならないぞ、と気づいたはずです。でも、私の中にはこの農家さんの栗はこういうものだ、というフィルター(渋みが抜けるのが早く、柔らかくなるのも早い栗である)ができあがっているので、目の前の栗をちゃんと見ていないわけです。つまり、私は過去の栗の寄せ集め、自分で作り上げた幻想としての栗を調理したということ。
その後、圧力鍋を使ってみたり、長時間煮てみたりしましたが、今年の渋皮煮は自分にとって満足のいく仕上がりにはなりませんでした。でも、いかに自分で作り上げたフィルター越しに世界を見ているか、そのことがいかに目の前にあるそのものを味わうことを妨げてしまうかを実感するとてもいい機会になりました。
これと同じように、目の前にあるものを舌で味わっているはずが、実のところ思考で食べているということはよく起きます。以前仲間内で、暗闇で食事をしてみるという試みをしたことがありました。そのときにお茶として出されたものが、実はお茶の葉を入れ忘れていて白湯だったのですが、その場にいた人たちが白湯であると気づくまでにはかなりの時間がかかりました。お茶だと思い込んで飲んでいると、実のところ白湯であってもお茶として味わってしまうのです。あるいは、たとえばこのプリンはAのものよりなめらかだ、とか甘いとか、コクがあるとか、過去に食べた同じようなものと比べてどうかという判断に忙しくて、そのもの自体を味わっていないとか。
対人関係においても同じです。自分で作り上げたその人像にとらわれて、目の前のその人自身を見ていないことは多々起きるでしょう。あの人はやさしい、賢い、時間にルーズだ……。過去のその人に対して自分で作ったフィルター越しに相手を見てしまう。あるいは、誰かと比べてAちゃんは彼からこんなプレゼントをもらってるのに、私の彼は全然そんなことしてくれない、とか、同じクラスのB君はテストで100点をとるのに、うちの息子はぜんぜんだめ、とか。
思考は常に働き続けています。それを止めることはできません。でも、そのことに気づいていることならできます。マインドフルネスの練習(=今この瞬間にいる練習)とはまさにこれで、気づいている、ということです。マインドは常に何かをしたがります。思考を止めようとか感情をどうにかしようとか。なにかをどうにかしよう、そう思った瞬間にマインドにとりこまれてしまいます。そのまま、あるがままをただ見つめる。どうにかしようとしない。マインドにとっては苦行のようなものですが、実はそこにこそ安らぎや安定感があるのです。
去年作った栗の渋皮煮です(笑)。比べなければ今年のものも悪くはありません。でもどうしても比べてしまう自分もいます。それはもう、仕方のないこと。共存するしかありませんね。