瞑想って
瞑想とは何か、をまとめる、ということをすることになり
そもそも、なぜ私は瞑想なんぞをしてきたのか、に思いをはせてみました。
瞑想の師に出会ったのは、2009年。
今思うと面白いことに、楽道庵という場所でした。
楽な道。
その何年もあとに楽に生きるお誘いをするようになるとはね。
でも、振り返ってみれば、楽に生きたかったんだろうなあと思います。
それで瞑想をしてきたのだろうと。
こういうと、なんかすごくアレなんですけど、
生きているから生きているだけであって、別にいつ終わってもOKです
くらいな感じでずっと生きて来ました。
やりたいこといっぱいあるし、まだ死にたくない感ってわからなかったし
(まあ今もわからないんですが)
だからこそ、生きる意味を探してた感じがあります。
で、瞑想。
生きるとは何か、人とは何か、人の本質ってなんなのか。
そういうのの答えを知りたかったのだなあ、と思います。
瞑想以外にも、ヨガをしてみたり、
バガヴァッドギーターの勉強をしてみたり、
アーユルヴェーダを勉強してみたり、マクロビオティックとか
ハーブとか、まあ色々手を出しました。
で、人とは何か、自分とは何か、って知ることではなくて
体験することなんじゃないか、と今は思います。
というか、知識としても体験としても知るのがいいんじゃないかと。
自分とは、を言葉にすると、ギーターなんかでは
永遠の至福の意識、などと言います。
終わりもなければ始まりもない、至福(神、全体に至る)意識。
人とは体ではない、魂だ、というギーターの主題になるわけですけれど
それを知識として知ってたって、何も変わりませんでした。
いやちょっとは楽になるかな。
でも勘違いもするかな。
体や思考や感情は、どうでもいいこと、みたいな。
いろんな人がいろいろに言う、一体感だとか全体性だとか感謝だとか
そういうのって、私は知識として持っていても、
はあ、そうなんですか
という感じでした。
でも、永遠の至福の意識としている体験を重ねていくと
そういうのって、自然と体でわかってくる。
瞑想って、それを体験することなのだろうと思います。
そして、それをたまに体験したいのか
永遠の至福の意識、として生きることを体験したいのか
そこには大きな差があります。
私は、断然後者派です。