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呼吸が変わるとラクになる

身体からはじめる

わたしの身体、わたしの心。じゃあ、つまり、身体も心も「わたし」ではないってこと。「わたし」ってなんでしょうね。まあそれはおいときますけれど、リラックスしていて力みがない、っていうのが人のベースだと思うんです。赤ちゃんってそうでしょう。

 

さて、身体も心もわたしのもの、所有物だとすれば、所有者はそれを利用することはあっても干渉されたり振り回されたりすることはないはず。論理的には。でも、それって結構むずかしい。心はいつだって何かに反応して怒ったり泣いたりするわけですし、身体も、肩こりや腰痛や頭痛や、それらが起きないようできるはずだし、それらが起きても「わたし」は干渉されないはずなのに、そうはできない。リラックスしている、というベースはないに等しくなっちゃう。

 

特に、心はとっても複雑で、心を「わたし」と切り離してみることは、チャイを飲んだときに、ミルクとスパイスと砂糖をそれぞれ単体で味わうようなもの、というような例え話を聞いたことがありますが、まあそれくらい複雑。だから心からどうにかしようとすると、途中で挫折するか、迷宮に入り込むか、押さえつけるか、になる。(瞑想やマインドフルネスで)「心をコントロールする」とか「心が穏やかになる」とか、そんな言葉が出回っているから、感情が起きたとしてもなかったことにしちゃったり。大事なことは、心も身体もリラックスしていて、何かが心や身体に起きても余裕を持っていられることであって、そういう結果のところじゃないんだけどね。

 

そんなわけで、まずは身体からはじめましょうよと言いたい。とにかく、リラックスしないことにははじまりません。そうはいっても、身体をリラックスさせる、とか力を抜く、とか、やってみると難しい、できない。クラスでも参加した方々がよく「力を抜くって超ムズイ!」と言いますが、そう、ムズイんです。

 

で、呼吸です。心と身体の架け橋である呼吸と、その呼吸のための身体を育てちゃう。そこは相乗効果で育ってくれるので、育ったらもう、あとは身体が勝手にリラックス方向に持っていってくれます。自分のベースを思い出すっていうことです。そこがスタートであり、ゴールだとおもいます。

マインドフルネス3.0(笑)

マインドフルネスの時間を取るのではなくて、マインドフルネスであること。静かに座る時間も大切だけど、その10分や20分や数時間よりも、それ以外の時間のほうがずっと長い。だから、マインドフルネスでありつづける、ながらマインドフルネスをおすすめしてきました。自分に起きていることをただ認知し続ける、それだけ。それはつまり、ただ今ここにいつづけるということ。超地味です。だから、マインドは全然満足しません。達成感とか自分はできるんだ感が全然ないから。

 

今ここにいるときにだけ、生きている喜びを感じられる、それを感じてほしいのだと瞑想の師がよく言っています。生きてる感。生きてるってすげーー!感。で、自分を今ここにおくためのイカリとして、身体の感覚や呼吸を使います。なぜなら、この2つは今この瞬間の現実だから。今この瞬間の身体感覚や呼吸を感じることはできますが、昨日や明日のそれを感じることはできませんよね。想像はできますけれど。

 

で、これまでわたしは、体感覚、呼吸に意識を向けるということをお伝えしてきました。でも、ある概念を知ってからは、それがさらに深まった感じです。というか、いろいろつながった、という感じでしょうか。それが鍼灸師・按摩マッサージ指圧師で渋谷鍼灸理学治療室代表の森田敦史先生による「呼吸のニュートラル」という概念。自分の呼吸のニュートラルを知って、その場所にいる。その場所にるとき、身体はとってもらくちんです。そして、呼吸がニュートラルになっていると、身体の動きや使い方が自然と変わります。今この瞬間、身体が心地がいいことを勝手に選ぶというかんじ。そして、いろんなことに気づきやすくなります。マインドは口出しできないようなそんな場所が呼吸のニュートラル。

 

呼吸に注意をはらうとき、自分の呼吸がニュートラルかどうか、自分の呼吸がどこにあるのかを観察してみる。それはつまり、今この瞬間身体が心地いいかどうかにも直結しています。身体や心がきつい、ノーと言っているけれど、これをすべきだ!やらなければいけないんだ! というのはマインドに支配されているときに起きることですが、呼吸がニュートラルかどうかという軸ができると、そういうふうにはなれない。そういうことが、オートマティックに起きてきます。呼吸のニュートラルという概念を知り、そうあるための方法を学ぶ。するとなにかをコントロールしようとすることが、自然と手放されていく。バガヴァッドギーターでは、マインドを使ってマインドから自由になることについての教えもありますが、呼吸のニュートラルという概念は、身体を使って、自分=身体という縛りから自由になる感じです。

 

単に呼吸を観察するのではなく、そこに呼吸のニュートラルという概念をインストールする。なんかそれってマインドフルネス3.0(笑)っていう感じがします。マインドフルネスを「しよう」というエゴから自動的に解放されるような。マインドフルネスの落とし穴をするりと通り抜けてしまうような、そんな感じです。

 

まあ最近「〇〇〇〇3.0」の意味を知って、3.0っていうのを使いたかっただけなんですけど(笑)、呼吸のニュートラルという概念を知るっていうのは、それくらい大きな変化、ということが言いたかったんです。で、それについて今、いろいろなところでシェアをしているわけです。

また書きます。

 

 

 

 

家族ってね、いろいろあるよね

マイロハスにアップした記事です。

マイロハスでは結構ソフトに書いてるので、ここではB面的な
もうすこし、辛口?じゃないけど抑えない感じで書こうかなと。

家族間の問題が、ややこしくなりがちなのは
そもそもただの人の集まりなのに「家族」っていう
なんだかもう、切っても切れないなにか、だったり
助け合うべき、とか唯一の、大切な、とかもう、
「家族だから」という理由で「すべきこと」を設けていたり
「家族」とは「こうあるべき」っていう自分的決まりごとがあったり
そういうのがあるんだとおもう。

 

さらにその家族構成は、もともとただの人であるはずが
母親、父親、子ども、祖父、祖母、みたいな、これまた
いろんな思いが込められた役割だったりするもんだからややこしい。
しかも家族に対しての色眼鏡って、当たり前になりすぎていて気づきにくい。

家族とともにいるとき、自分にも相手にも、無意識的に(あるいは意識的に)さまざまなラベルを貼っています。妻、母親、娘、嫁......。夫、母親、父親、姑、舅、息子、娘、兄、姉......。ひとりの人としてではなく、どうしてもそのラベル越しに相手を見てしまいます。さらに、そのラベルに対しての思い込みは、自分で思っている以上に強固だったりします。妻はこうあるべき、母親はこうあるべき、夫は、子どもは......。そして、夫婦とは、親子とは、家族とはこうあるべき......。そして、知らず知らずのうちに、自分や相手にその思い込みを押し付けてしまいます。

 

その人が「家族」だから大切にしたいのか?
それとも、その人だから大切にしたいのか?
そこが大事なんだとおもうし、大事にしたい。
反対に言えば、家族のこと、家族の誰かのことを嫌いでもいいとおもう。

誰のことを嫌いでもいいとおもうんだけど、
嫌いってことは、自分の何かが反応してるってこと。
もっというと、相手は嫌われ役をやってくれてるわけで、
自分がその人に対してどんなラベルをぺたりと貼ってるのか
なんで嫌いなのか、反応してしまうのか、を見てみると
おおーっという、気づきがあったり、します。
結構おもしろいです、これ。

たとえば「妻あるいは母親は毎日朝ごはんを作るべきだ」と思っていたとしたら、朝ごはんを作らないことに罪悪感を感じるかもしれません。たとえ体調が悪かったとしても「朝ごはんを作らないといけない」とか「休むわけにいかない」と、自分に鞭打って朝ごはんを作るでしょう。「夫あるいは父親は毎日朝ごはんを作るべきだ」と思っていたとしたら、たとえパートナーが毎日朝ごはんを作ってくれたとしても、当然であると思ってしまうし、反対に作らなければダメな、あるいはひどい夫、父親だ、と判定を下すことにもつながります。



他人を通して自分を知る(ことしかできない)。

 

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雄だと聞いてもらった弦。後から病院で雌だと判明。雄だと思っていたときと雌だと分かってからでは、接し方が変化して自分でもびっくり…。

人間関係のトリセツ 後編

トリセツをちょっとわきにおいて、目の前の人と向き合ってみると、その人のことだけでなく、自分のこともよくわかるかもしれません。

 

目の前にいる人を、自分はどんなふうに分類し、ラベルを貼っているでしょうか。夫、恋人、子ども、親、やさしい人、怒りっぽい人、クールな人、おもしろい人、食いしん坊……。そんなふうに分類したりラベルを貼ったりするのは、悪いことでもなんでもありません(時に楽しかったりもしますよね。男っていつまでたっても、子ども! なんて言い合ったり)。でも、ああ自分はこの人をこんなふうに見ているんだな、ということ、ラベルは自分が貼ったものであって、その人自身ではないということを知っておくことは、その人との関係性を深める役に立つとおもいます。ラベルをはがしたところで相手と向き合う時、その人、そして自分に、今、何が起きているのかが分かりやすくなるからです。

 

たとえば、Aさんが何かをした、そして自分はその言動を冷たいと「思った」。「冷たいと思った」のは事実です、もちろん。けれども、それはAさんが「冷たい人」であるということではありません。そして、もし、Aさんのことを最初から「冷たい人」というラベル越しに見ていたとしたら、「冷たい人だからしょうがない」と、Aさんがなぜその言動をしたのかに目が向かなくなってしまいます。つまり、Aさんのことを理解する機会を失ってしまうということです。

 

誰かの言動によって、自分の心が動いたら、まずはその自分の心の動きに目を向けます。もしかしたら「あの人って心が狭い!」なんていう言葉が出てくるかもしれません。それはそれでいいのです。それが自分の中にあることをまず知ります。そうしてから、目の前の人とじっくり向き合ってみます。この人には「今」何が起きているんだろう? そんな視点を持ってみます。

 

人は常に変わり続けるものです。その変化とともにあること、つまり、自分の記憶の中のその人と対話するのではなく、今この瞬間のその人を見ることでこそ、関係が育まれていくのだろうとおもいます。

 

人間関係のトリセツ 前編

新しい季節に始まった、新しい人間関係。この人はどんな人なんだろう? と、おそるおそるだった関係性も、なんとなくその人となりが分かり、そろそろ慣れてきたころかもしれません。人間関係とは相手のトリセツを作っていくことだ、と言われることもありますが、それについてちょっと考えてみたいとおもいます。

 

付き合う時間が長ければ長いほど、その人に関する情報が自分の中にどんどん蓄積されていきます。たとえば、この人の好きな食べ物はこれらしいとか、あの人はこれをするとちょっとイライラするらしいとか。そうして、自分が見聞きした相手の言動という情報をもとに、あの人は怒りっぽいとか、優しいとか、はたまたあの人は好き、嫌い、というふうに意識的に、あるいは無意識的に分類していきます。そんなふうにして周りの人になにかしらのラベルを貼ることは、未知のものに触れる怖さからの回避で、安心を求めるためなのかもしれません。

 

でも、「あの人は、こんな人、こんなタイプ」。そんなふうに誰かにラベルを貼っていくとき。誰かのことを理解した、と思うとき。残念なことに、その人間関係はどんどん死んでいくのだろうとおもいます。人は毎瞬変化しています。それは海のようで、波がいっときも同じ形にとどまっていないのと同じ。でも、自分が作り上げたそのトリセツとともにその人と関わるということは、過去の経験をもとにその人の定義をした自分の考えという枠の中で、その人と関わるということです。目の前にいるその人の中で「今」生き生きとしているものは、常に変化しているために、トリセツを見ていてはそれを見逃してしまうのです。

ありがとうを言わない練習 後編

「ありがとう」について、NVC(Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)のトレーナーであるホルヘ・ルビオさんがこんなふうに言っていたのが印象に残っています。

 

「春は、ちょうどいい時期に、適度な気温と湿度を桜に与える。見返りも求めない。でも、春が与える環境がいくら適切であっても、木が死んでいたら桜の花は咲かない。桜の木の意思とタイミングで開花するんだ。僕は、感謝というのは、桜の木が春に対して、自分がどう花開いたかを伝えるようなものだと考えている」

 

「ありがとう」を言うことの目的は、相手の言動によって自分のいのちがどれだけ輝いたかの自己表現であると同時に、それを受け取ってもらうことで信頼を築いていくことなのだとおもいます。

 

「ありがとう」を言わない練習中に「ありがとう、と言いたいけれどむしろ、ありがとうだけではこの感謝の気持ちは伝えきれない」と思ったことが多々ありました。普段「ありがとう」とひとまとめにしている自分の内側も、きちんと見てみるといろいろなものがあるものです。それを探ってみることは、自分との関係、そしてそれを伝える相手との関係を深いものにすることに役立つと思います。

 

もうすぐ母の日です。「いつもありがとう」と言う前に、母親のどんな言動を受けて、自分はどんなふうに花開いたのかを顧みてはいかがでしょう。「私が落ち込んでいるようなとき、何も言わずに私の好きな食べ物を作ってくれたよね? 見守ってくれていると感じて、安心したし元気が出てがんばれた。ありがとう」。あたたかさとつながりを生む自分らしい表現が出てくるかもしれません。

ありがとうを言わない練習 前編

「ありがとう」。その語源を思うとき、素敵な言葉だなあと思います。「ありがとう」はもともと「有り難い」です。つまり滅多にないこと。そうなると、反対語は「当たり前」でしょうか。自分の身に起きることが偶然か必然か、は別としても、それが起こる確率を考えると、どんなことも「有り難い」感じがします。と同時に、大きな自然の流れの中ではすべてが「当たり前」なのかもしれないなあとも思います。

 

さて、何年か前に「ありがとうを言わない」練習をしたことがあります。「ありがとう」はいい言葉、感謝が大事、だから「ありがとう」をできるだけ言おう!というような風潮もあるような中、時代に逆行しているかもしれませんね。でも、1週間のその練習は私にとって、とても意味あのあるものでした。

 

「ありがとう」を言わないようにすることで気づいたことは、「ありがとう」なんて本当は思ってもいないのに、「ありがとう」と言っているということでした。とりあえず言っていたり、無意識にただ口から出てきていたり。相手をコントロールするために言っていることもありました。たとえば、何かをしてもらってうれしい、そしてまた同じようにしてほしい。そんな思いからの「ありがとう」。

 

日常的に使う言葉を言わないように意識することで、言葉を発する前にひと呼吸おくことになります。それは、自分がなにを思っているのか、言葉を通して自分は何を表現したいのかにつながる時間になりました。

 

なにかを言うとき、するとき、それは自分のどんなところから出てきているのでしょう? ほんとうにそれが言いたくて、したくて、しているのしょうか? あまり心地よくはないのに、なんとなく習慣で、あるいは、すべきだから、という理由で言ったり行ったりしていないでしょうか? もしそうだとしたら、そうすることでどんなことを得て、どんなことを失っているでしょうか?

 

言葉として出す前に、何かをする前に、まず自分のなかで「今」何が起きているのかを見てみる。今すぐできるマインドフルネスの練習です。