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Forget for get

呼吸と体を通して、自分を思い出すこと、それは「自分」を忘れること。呼吸と日々の食事でHIVとともに生きる心と身体をケアする松永真美が、生きることを活かすこと、「生活」について綴るつれづれブログ。

家族ってね、いろいろあるよね

マイロハスにアップした記事です。

マイロハスでは結構ソフトに書いてるので、ここではB面的な
もうすこし、辛口?じゃないけど抑えない感じで書こうかなと。

家族間の問題が、ややこしくなりがちなのは
そもそもただの人の集まりなのに「家族」っていう
なんだかもう、切っても切れないなにか、だったり
助け合うべき、とか唯一の、大切な、とかもう、
「家族だから」という理由で「すべきこと」を設けていたり
「家族」とは「こうあるべき」っていう自分的決まりごとがあったり
そういうのがあるんだとおもう。

 

さらにその家族構成は、もともとただの人であるはずが
母親、父親、子ども、祖父、祖母、みたいな、これまた
いろんな思いが込められた役割だったりするもんだからややこしい。
しかも家族に対しての色眼鏡って、当たり前になりすぎていて気づきにくい。

家族とともにいるとき、自分にも相手にも、無意識的に(あるいは意識的に)さまざまなラベルを貼っています。妻、母親、娘、嫁......。夫、母親、父親、姑、舅、息子、娘、兄、姉......。ひとりの人としてではなく、どうしてもそのラベル越しに相手を見てしまいます。さらに、そのラベルに対しての思い込みは、自分で思っている以上に強固だったりします。妻はこうあるべき、母親はこうあるべき、夫は、子どもは......。そして、夫婦とは、親子とは、家族とはこうあるべき......。そして、知らず知らずのうちに、自分や相手にその思い込みを押し付けてしまいます。

 

その人が「家族」だから大切にしたいのか?
それとも、その人だから大切にしたいのか?
そこが大事なんだとおもうし、大事にしたい。
反対に言えば、家族のこと、家族の誰かのことを嫌いでもいいとおもう。

誰のことを嫌いでもいいとおもうんだけど、
嫌いってことは、自分の何かが反応してるってこと。
もっというと、相手は嫌われ役をやってくれてるわけで、
自分がその人に対してどんなラベルをぺたりと貼ってるのか
なんで嫌いなのか、反応してしまうのか、を見てみると
おおーっという、気づきがあったり、します。
結構おもしろいです、これ。

たとえば「妻あるいは母親は毎日朝ごはんを作るべきだ」と思っていたとしたら、朝ごはんを作らないことに罪悪感を感じるかもしれません。たとえ体調が悪かったとしても「朝ごはんを作らないといけない」とか「休むわけにいかない」と、自分に鞭打って朝ごはんを作るでしょう。「夫あるいは父親は毎日朝ごはんを作るべきだ」と思っていたとしたら、たとえパートナーが毎日朝ごはんを作ってくれたとしても、当然であると思ってしまうし、反対に作らなければダメな、あるいはひどい夫、父親だ、と判定を下すことにもつながります。



他人を通して自分を知る(ことしかできない)。

 

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雄だと聞いてもらった弦。後から病院で雌だと判明。雄だと思っていたときと雌だと分かってからでは、接し方が変化して自分でもびっくり…。