自然を愛するってことはつまり自分の身体を愛するってことだ
自然が生み出すものに畏敬の念を感じられるなら、同じように自然が生み出した自分の身体にも畏敬の念が生まれると思う。他者の身体にも。バクティヨガってよく分からなかったけど、そういうことかと最近腑に落ちた。すべてのものの中に神性を見いだすことによってのみ、すべてのものを愛せるっていうのが。
自然と近しくなって触れ合うことの効能としては、その大きなものへの畏敬の念が自然と生まれることがあるとおもう。よく、大自然の中にいると自分のちっぽけさが分かる、と言うのだけれど、うん、それもあるけど、それだけじゃないとおもいます。
試しに、身近にある自然といつもよりお近づきになってみます。大自然の中に行けたらベストだけれど、都会の中にも自然はあります。というか、逆か。自然という大きなもののなかに都会があるのかも。まあそれはいいとして。
木々をただ遠くから眺めるのではなく、近づいてその質感をじっと見てみる。手で触ってその感触を味わってみる。香りを吸いこんでみる…。花も、マクロレンズで観るかのように、めしべやおしべ、花びらの筋などまで詳細に眺めてみる。岩や石や、自然が生み出した造形物の美しさ、豊かさ、素晴らしさをじっくりと味わってみる…。自然は完全な調和をもってそこに存在しています。日本では古くから、その自然を愛で、美しさを讃え、森羅万象に神が宿ると考えていました。それが八百万神(やおよろずのかみ)ですね。
さて、私たち人間も、自然の一部です。大事なことなので繰り返します。私たち人間は自然の一部です。アーユルヴェーダ的に言えば、そこにある花も、人間の身体も、岩も、素材はおなじ。その配合が違うだけです。
そんなわけで、自然が織りなす美しさや偉大さをじっくりと味わったら、今度は、自然の一部としての自分の身体も同じように扱ってみます。頭のてっぺんからつま先まで、くまなくさわってみたり、眺めてみたり。自分の身体を、自然が生み出したもののひとつとして愛でることができるとき、自分のそのままの美しさを認められるんじゃないかなとおもいます。自分はちっぽけかもしれないけれど、ちっぽけなだけではなく、偉大な自然が生み出した自然の一部。
現代においての女性の美のほとんどは、メディアによって生み出されたもののように思います。足は細く長く、ウエストはきゅっと引き締まって、胸は豊かで…。その作られた「お手本」と自分を比べて、自分にはここが足りない、あそこがだめだ、そんなふうに自分を裁いて、叱咤激励し、がんばってダイエットしたり、エステに行ったり。それって、ひまわりが朝顔を目指すようなものなんです。朝顔みたいになるために、朝早く咲かなくちゃ、茎が太すぎるから細くしなきゃ、いろんな色の花を咲かせなきゃ…。でも、ひまわりにはひまわりの美しさがあって、ひまわりなりのペースで種から花へ、そしてまた種を生み出して土に還るというサイクルを繰り返しています。
自然が持つその完全なサイクルや調和、美や偉大さは、自然の一部である自分にも同じようにあるものです。それを認識したとき、自然と自分にも他者にも愛を持って接することができるのではないかなとおもいます。