その怒りも悲しみ喜びも結局のところ自作自演
誰かに対して怒りや、イライラを感じたとき。この人がこうじゃなければ、この人がもっとこうだったら、こんなに感情が揺さぶられなくてすむのに……。そうして、でも人は変えられないわけだし、じゃあどうしたらいいんだろう……。そんな無限のループに陥ることはないでしょうか。
怒りやイライラなどの感情の裏側には、多くの場合自分の考えがあります。そして自分は自分のその考えが「正しい」と思い込んでいるので、相手がその「正しさ」の規範から出たときに「それは間違っている」という考えが瞬時に立ち上がり、怒りやイライラを生み出したりします。
たとえば「家族は協力しあって当然だ」というような考えがあったとします。そもそもこれが自分の「考え」だということがしっくりこない場合もあるかもしれません。家族が協力しあうのは当たり前だし、自分の「考え」ではなくて、世の中の理でしょう、多くの人が同意するはず、というような「考え」も浮かんでくるかもしれません。そこには「家族は協力しあうべきだ」だけでなく、「多くの人がそうだといっていることは正しい」という考えもあるということですね。
さて、「家族は協力しあうべきだ」の考えがあった場合に、家族で出かける時間に夫がテレビを見ていたり、ゴロゴロしていたりしたとしたらどうでしょうか。きっと怒りやイライラがわいてくるでしょう。「なんで手伝ってくれないの!」「自分のことしか考えてない!」そんな言葉もでてくるかもしれません。夫がもっと協力的だったらもっと楽に暮らせるのに……。でも、人は変えられないっていうし……。
でも、その根っこにあるのは、夫の言動ではなく「家族は協力しあうべきだ」という考えです。もしも「家族はそれぞれ好きなことをすべきだ」という考えがあったとしたら、夫のその言動は喜ばしいものになるでしょう。感情が湧いてきたとき、その矛先が相手に向きがちですが、一度立ち止まって、その根っこが自分にあることを思い出してみる。それは自分とともにあること、自分にやさしくするということだとおもうのです。
怒りが湧いてきたりイライラしてきたりしたら、一旦停止。感情に流されず、自分が選んだ流れに乗るための技術です。感情や思考はどんどん前に前に進もうとしますから、まずは一旦停止です。でも、思考を一旦停止するのは難しいですから、体を使います。つま先立ちになって、とん、とかかとを床に下ろすのはとても効果的です。何度かとん、とん、とかかとをおろしましょう。今この瞬間に碇をおろすようなイメージです。
感情を相手にぶつける前に、まずは立ち止まって自分に怒りがあることを確認します。そうして、さらにその裏にある「家族は協力すべきだ」という考えがあることも認めます。当然のことながら、自分と相手は違う人間ですから、自分の考えを同じようにそっくりそのまま相手に持ってもらうことはまあ、無理でしょう。たとえ「家族は協力すべきだ」という考えが同じようにあったとしても、どんなふうに協力するのかについてはそれぞれのやり方があります。出かける準備を手伝うことを協力とみなす場合もあれば、休日にたっぷり休息をとることを温かく見守ることを協力とみなす場合もあります。相手と自分はちがう。それをふまえた上で、じゃあ自分は一体何を求めているんだろう、ということに目を向けてみます。
相手を変えようとする前に、変わってほしいと願う前に、自分の中になにかしらの考えがあるのだということに目を向けてみましょう。相手はただ存在しているだけです。変わるべき存在がいるのではなく、その相手は変わるべきだと考える自分がいるだけです。相手を変えることはできない、でも自分は変わることができる、というのは、自分が成長して相手を受け入れられる心が持てればいい、とかそういうことではないのです。あるがままの自分、いろいろな考えや思いを持っている自分に気づく。それだけで充分です。
他者にやさしくあるための方法は、自分にやさしくあることなんだろうとおもいます。自分が持っていないものは誰かにあげることはできませんから。