Forget for get

呼吸が変わるとラクになる

前に進むために癒しは必要なのか

どんなにたくさんのセッションを受けて、
過去にできた傷やトラウマを癒しても、
自分の深い深いところを探っていっても、
結局のところ、いま、その一歩を、あるいは一手を変えるしか
変わる方法ってないんだとおもう。

それはつまり、癒しがなくても、
新しい道に進んでいくこともできるっていうこと。
結局のところ、自分が「今」にあることがすべて。

でも、そっちに行くのがこわかったり、無気力になっちゃったりするときに
傷やトラウマの癒しはそっちに行ってみよう!って
おもえる勇気をくれるんだとおもう。
でもだからといって、前に進めないのはそういう傷やトラウマのせいじゃない。
そのせいにしたくなるけど。
進めないんじゃなくて、進まないという選択をマインドとしての自分がしているだけ。
(マインドは、自分を守ろうとして、それが最適な方法だっておもって、
その選択をしてくれている。)

人とどんなふうに関係性を築いていくかについては、
家族や幼稚園や学校や、コミュニティなんかを通して学んでいくけれど、
自分の感情やマインドとどんな関係性を築いていくかについては、学ぶ機会ってない。
だから、適切な距離を取れなくて、突き放してしまったり、
共依存みたいになったり、おぼれてしまったりする。

感情って、ただのエネルギーの動き。
それが体感できると、感情とほどよい距離感で付き合えるようになる。
ここでもやっぱり、呼吸や体感覚はとってもだいじです。
まずはそこから。

マインドは、守り役。ガードマン。必死で守ろうとしてくれている。
よかれとおもって、いろいろな判断をしてくれている。

2月は名古屋、3月は京都で場を開きますが、
そのときにそのあたりもシェアしようと思っています。

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暖かかった週末、ひさしぶりに夕暮れ時をビーチで過ごしました。「夕焼けを見る」っていう目的もなく、ただのんびりと。寄せる波、返す波。くりかえし、くりかえし、でもぜんぶちがうというその奇跡。


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他者にやさしくあるために必要不可欠なことは、自分にやさしくあること

人にやさしくできないとか、だれかをうらやましく思うとか、だれかのささいな言動にイライラするとか、そんなことがあったとしたら。そんな自分を「ダメな自分だ」と責めるかわりに、もっと自分をかわいがってあげることをおすすめしたいとおもいます。

他者にやさしくあるために必要不可欠なことは、自分にやさしくあることです。

そもそも、人にやさしくできなければダメだ、人をうらやんだらダメだ、小さなことでいちいちイライラしたらダメだ、なんて誰が決めたのでしょう。世間?社会?文化? いえ、自分です。残念ながら、自分なのです。誰かがそう言ったかもしれません。たくさんの人がそう言うかもしれません。でも、それは数あるうちのひとつの意見にすぎません。それでもそれを「その通りだ」と採用しているのは自分なのです。

自分自身に、それが感情であれ考えであれ言動であれ、いちいちこれはいい、これはだめ、と誰よりも厳しいジャッジをくだしているのは、自分自身です。どんなふうに責めれば「効く」のか。どんなところをつかれると痛いのか。それを一番わかっているのは自分です。だから、自分は、誰よりも自分に鋭い矢を向けられるのです。

それがどんなものであれ、自分の中にあるものすべてにちゃんとスペースをとってあげる。よくないこと、悪いこと、ひどいこと、醜いこと。そんなふうに思えるものであったとしても、それを持つ自分にOKを出してあげる。無条件の愛を他者に向けようとがんばるまえに、まずは自分に無条件の愛を差し出す。自分が持っていないものを、人に差し出すことはできませんから。

1年の最後の月です。1年間を振り返ってみるなら、こんなふうにするのがおすすめです。この1年、どれだけのうれしいこと、よろこびを体験したでしょうか。 今年体験した、うれしかったこと、たのしかったこと、喜びを感じたことを、ノートに書き出してみます。10項目くらい挙げてみます。そして、それらのことを体験できたこと、自分にその体験をさせた自分自身を褒め称えます。自分に表彰状を渡すつもりで、自分が自分に対してどんな功績を残したのかを書き記してみます。自分の人生をお祝いして豊かさに光をあてる方法のひとつです。

そして、お祝いと同様に大切なのは、実は「嘆くこと」です。自分がどれほどつらかったか、どれほど大変だったか。1年を振り返れば、いろいろあることでしょう。上司に理不尽に怒られて怒りがわいた、とか、パートナーにこんなことを言われて悲しかった、とか、なんでも、どんなことでも書き出してみます。こちらも10項目くらい挙げてみます。そして、そのときの自分がどれだけつらかったのか、大変だったのかを認識します。感情がわきおこってきたら、それをそのままに受け止めます。それは自分への無条件の愛です。そうしてはじめて、それらの出来事は清算されます。

自分が自分の親友になったつもりで、自分と対話を。うれしかったことも、つらかったことも、そのままに受け止め、ともに喜び、お祝いをし、悲しみ、怒り、嘆きます。

祝福することと、嘆くこと。どちらも、同じように尊い体験です。右がなければ左がないように、上がなければ下がないように、嘆きがなければ、祝福もないでしょう。1年の締めくくりとしてだけでなく、日々のお祝いと嘆きを書き出してみるのもおすすめです。

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毛繕い途中の猫。猫ってよく毛繕いをしているんですが、起きている時間の40%を毛繕いに費やしているというデータもあるそう。私たち人間は自分の体のケアにどれだけの時間を使っているでしょうか。


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あれこれ心配しなくても、私たちには調和的に生きるシステムが基本搭載されています

 冬はあたたかくさえしていればなんとなくしあわせ。しあわせのハードルが下がる季節だとおもっています。あたたかいブランケットや靴下、帽子に手袋などなど、冬にそなえてあったかグッズを準備するのはたのしいものでもあります。そして、冬に備えての準備、体もちゃんと見えないところでしてくれています。

 耳にしたことがある方もいるかもしれませんが「ホメオスタシス(生体恒常性)」という仕組みが人には備わっています。生きていく中では、温度や湿度など外側の環境は変化していきますが、そんな変化があっても、体の状態を一定に保とうとする仕組みです。この仕組みがあるために、夏の暑いときに体温がどんどん上がり続けることはないですし、冬になって気温が下がったからといって体温も下がっていくことはなく、1年を通してほぼ同じ体温を保っているわけです。環境の変化に反応して体を働かせ、健康な状態、生命を維持しようしています。

 私たちは腕を動かそう、と思って動かすことはできますが、汗をかこう、とおもってかけるものではありません。でも、体温が上がりすぎた、汗をかこう、なんていちいち自分でどうにかしなければならなかったら、日々大忙しです。私たちが体にいちいち言わなくても勝手に調整をしてくれる仕組みがホメオスタシスです。そんな素晴らしい機能を私たちは持って生まれてきているというわけです。

 体にそんなスーパー機能があるにもかかわらず、現代に生きる私たちは、どうも体よりも頭を優先してしまうようです。食べ物が必要になれば空腹感を感じさせ、水分が必要になればのどの渇きを感じさせるように、体の状態の変化に応じて、いろいろなサインを出して行動をうながしているのも、ホメオスタシスという仕組みによるものです。

 それなのに私たちはお腹が空いてもいないのに食べたり、体がだるいのに体にムチを打って活動したりします。そんなことを続けていると、体は本来の機能を働かせられなくなってしまいます。

 体の声を聴いてみましょう。お腹が空いたら食べ、お腹が一杯なら食べない。寒さを感じたら、体を温め、疲れたら休息をとりましょう。

あれこれ心配しなくても、私たちには調和的に生きるシステムが基本搭載されています。

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急に寒くなった日、テンションだだ下がりの猫。猫は、心地のいい場所を探すのが得意です。冬は家の中でいちばんあたたかい場所にいますし、夏はいちばん涼しい場所にいます。

 
 また、「ホメオスタシス(生体恒常性)」という仕組みは、いわば安定させる仕組み。つまり、わたしたちには、変化よりも安定を求める性質があるともいえます。そして、それは体だけでなく、心にも同じように作用します。

 「変わりたい!」そんなふうに思うとき、わたしたちは一気に変わろうとします。「健康になりたい」と思えば、早寝早起きをして、食事は腹八分目、これは食べない、あれは絶対食べる、などいろいろな項目をかかげ、それを実行しようとしては三日坊主で終わってしまう……。

 大きな変化は、思考としては大満足です。自分にはそれを実行するだけの力があると思えますし、達成感も味わえます。でも、体的には大きな変化はストレス。ホメオスタシスの仕組みにより、もとに戻そうとします。結果、いろいろ目標を掲げたけれどすぐに挫折、ということになるわけです。自分の意志力が弱いからとか、怠惰だからとか、そんなふうに自分を責めるのはナンセンス。もともと備わった仕組みにはあらがえません。

 では、わたしたちは変わることができないのかというと、そんなことはありません。変わりたいのであれば、少しずつ、ゆっくりと。実はこれは、思考としてはまったくおもしろくありません。思考にとって大切なのは「やった感」。地味なことをコツコツと続けるのは、苦手とするところです。でも、ここでこそ「意志力」を使うときです。体に備わった機能に反することをするよりも、意志力で思考をコントロールするほうがまだラクです。

 「なにかをしよう!」「変わろう!」そう思ったら、少しずつ、少しずつ。そして十分になじんでから次のステップへ。「すぐに結果を!」「前へ!前へ!」というスピード感をよしとすることに慣れていると、じれったく感じるかもしれません。でも、小さなことをコツコツと。これがいちばんストレスが少なく、心身に無理強いすることなく、早く変化することができるとおもうのです。


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蚊が顔を刺すという慈悲について

ちょっと前のこと、首を絞めて殺される夢をすごくリアルに見ました。
あまりにリアルすぎて、これは別の次元で「自分」が体験してることなんでは?
と思うほど。

そんな話をいろいろ見えちゃう系のひとに話したら、
ある人物に対して「許せない」っていうのがあるよねと。
思い当たるふしがないではないけれど、それは思考レベルでの話であって
状況から推察するにそんな思いがあっても当然だろう、くらいの感じでした。
「許せない、このやろう!」感が体感としてはないのです。
なので、扱うに扱えない。

感情は、エネルギーとして体感で扱わない限り、
マインド内であれこれやって、やった感だけあって
エネルギー的にはなにも変わりません。
ちなみに体感で扱うのは、特別なことではなくて誰もが体で味わえることです。
(これに関しては、年明けにシェアする場をひらきます)

どうやら私のなかにあるっぽい
「許せない、このやろう!」感は、扱うには大きすぎて
マインドさんがきちっと蓋をしてくれたんだろうなという感じ。
それでも「許せない、このやろう!」感があるんだろうな、という認識をした翌朝、
ばっちり寝違えて、さらに胃も硬くなってました。

体にはいい感じででてきている感じがする……。
でも「許せない、このやろう!」感は全然出てこない。
ただ、ここで、寝違えたのをどうにかしようとか、硬い胃をほぐそうとかするのも
ちょっとちがう、というかコントロールを生む。
でも、そのまま、もつらいので、呼吸だけはラクなところに。
そうして、ただ痛みのためのペースを用意します。

「許せない、このやろう!」感、出てこないかな〜と思いながらも
これはもう私にはどうにもできないので、
かみさま、かみさま「許せない、このやろう!」感を味あわせてください、、
と、なんとなく投げてみました。


そして、数日後の夜。初雪が降った寒い日でした。
眠っていたら、ぷ〜んという音。
蚊っぽいけれど、もうずいぶん蚊は見てないし
こんな寒い日に蚊なんているわけないよね、とまた眠りに落ちました。
が、おでこのかゆさで目を覚ましました。
え、やっぱ蚊?
電気をつけて目をこらすけれど、いない。
気づけば腕も刺されていて、かゆい。
ほどなくして、またぷ〜ん。

これが夏なら、ベッドから出て蚊遣りを焚いたり
虫カップ(綿棒が入っていた透明のカップ。虫捕獲用)でつかまえたりするんですが
なにせ寒い寒い夜。
ベッドから出たくない。
どうしようかなあ、なんておもっているとまたぷ〜ん。
だんだん蚊に対してイライラしてきました。おでこ、かゆいし。

イライラする!イライラする!イライラする!
このやろう! 殺してやる!

と、十分にイライライライラして、殺してやる!殺してやる!
そんなふうに、イライラと、自分の中にある他者への殺意を迎え入れていたら
気づかぬうちにまた寝てました。
(イライラって、イライラさせておけば、かってにいなくなるんです。)

次の日起きたら、ほっぺも刺されてました。

起きて思ったことは、おお、望み通り、
「許せない、このやろう!」感を見事に味わったじゃないか!ということ。
それを味わわせてくれた蚊の慈悲。かみさまの慈悲。

相手との関係性というストーリーとともに蓋をして保存された
「許せない、このやろう!」感は、まだあると思うけれど、
たぶんちょっと蓋があきました。
蓋は無理にあけなくても、その時が来たら勝手に開くし、
開いたら、そのままにしておけば、
沸騰しているお湯が蒸気になってなくなるように、形が変わっていきます。

一気に蓋があくかもしれないし、ちょっとずつかもしれない。
いずれにせよ、感情をなかったことにしないで、ちゃんと扱うことで
プログラムされたパターンが弱まっていきます。
自分で作り上げたストーリーから自由になる方法のうちのひとつです。

ちなみに、その日も部屋の中で何度か蚊を見たけれど、刺されはしませんでした。

 

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何年か前の雪の日にはしゃぐうちの猫。猫はこたつで丸くなるんじゃないんか……。

 

 

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お金を使うときの自分のパターンに気づいてみる

自分に気づいていること。気づくための時間、瞑想やマインドフルネスの時間をとるのではなく、常に気づいていること。これは、マインド(思考や心)の支配やパターンから自由になるための近道です。

とはいえ、いつなんどきでも気づいているのは最初はなかなか難しいものです。そこで、マインドフルネスのクラスなどでは、まずは気づいている時間やシーンを区切ることをおすすめしています。たとえば、朝食の間、歯磨きのとき、食事の最初の5分間、バスタイム、家から駅までの道のりなど、そのときだけは自分の感覚、思考、感情に気づいているようにする。そして、気づくという感覚を身につけ、その時間を増やしていくのです。

体感覚、五感で感じる刺激に気づいている練習は、以前ご紹介した食べる瞑想や歩く瞑想がトライしやすいでしょう。体感覚や五感に耳をすませるのは、今この瞬間にいるための方法です。過ぎ去った過去でもなく、まだやってきていない未来でもなく、今この瞬間という現実を生きる。いつでもその状態であれば、それはつまり、マインドから自由になっているということです。なぜなら、マインドは過去、あるいは未来という幻想を生み出し、その幻想の中でのみ生きているものだからです。

 そして、自分の思考や感情に気づいていることもマインドの支配から抜け出す方法のひとつです。誰かの言動によって心や思考が動いたときや、あるいは自分が何かをしているときの自分の思考や感情。たとえば、待ち合わせの相手が約束の時間より遅れてきたとき。イライラしたり、なんてだらしないひと! なんていう思考が湧いてきたとしたら、そのことにただ気づきます。善し悪しはなく、ただそれがあることを認めること、気づくことは、とても大切です。これまでにも、何度かそんなことをお話ししました。今回は、そんなふうに感情が動くときだけでなく、何気ない日々の自分の思考にも目を向けてみることをおすすめしたいとおもいます。

たとえば、日々の買い物。自分にとって高額のものを買うときには特に、自分の中で対話が起こることに気づきやすいかもしれません。本当に必要? 贅沢すぎない? もっと安くていいものがあるんじゃない? などなど。一方で、自分に取って安いと思えるものを買うときにはどうでしょうか。

たとえば、スーパーで値引きになっているお惣菜や、ペットボトルの飲み物、ちょっとしたお菓子。特に、値引きになっているものを買うときに自分の中で起きていることを見てみるのはおもしろいものです。グリーンサラダが食べたいなと思ってお惣菜コーナを見ていたとします。すると、グリーンサラダは1000円だけれど、通常1500円の温野菜サラダが値引きになって500円で売っている……。グリーンサラダが食べたかったけれど、温野菜サラダのほうがお得だし、こっちにしよう。そんなふうに、自分の「食べたい」を、金額を理由にいとも簡単に却下し、そんなに欲しくもなかったものを金額を理由に買ってしまう。そんなことはないでしょうか。

金額を理由に選ぶことが良いとか悪いとか、そういうことではありません。ただ、金額を理由に自分が本当は欲しいと思っていたものを買わない、あるいは、欲しいと思ってなかったものを買うことがある、そういうパターンがあるということに気づいていましょう、ということです。そうして、そのパターンで買ったものを実際に食べたり(着たり、使ったり)するときに、どんなものが自分の中に湧いてくるかにも気づいていましょう。もし、それがあまり心地の良くないものであったなら、次からはそのパターンを変えてみればいいのです。安さを理由に買い物をするくせがあるなら、初志貫徹、欲しいと思ったものを買ってみる。そしてまた、自分の中に起きるものに目を向けてみる。

何か特別なことをしなくても、日常の中に自分に気づく要素はたくさんあるんです。

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金額の大小に関わらず、買い物で迷ったときの指針にしているのは「悩む理由が金額だったら買う、買う理由が金額だったら買わない」です。食材を買うときは特に「食べたい」「おいしそう」が大事。

 

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掃除しようぜ!

2016年も残すところ1カ月とあとすこし。12月、師走になれば文字通り慌ただしく駆け抜けるように日々が過ぎていきます(もっとも、師走でもないのに瞬きをしている間に終わってしまったんじゃないかという月もあるのだけれど)。わたしにとって年末の行事といえば、大掃除。クリスマスとか忘年会とかじゃなくて、大掃除。編集者として働いていた頃にも、年末進行で死にかけ状態であっても大掃除だけはしていたのは、母の影響でしょう。

1年を締めくくって、新しい年を迎えることは、大きなイベントです。すっきりと整頓されたうつくしい状態で新しい年を迎えるのは、清らかなものです。それと同じように、1日を締めくくって、新しい一日を迎えるのも日々のイベントだとおもうのです。人生は、日々の積み重ね。その日々を大切にするのは、自分を大切にするということでもあります。

人は、環境に大きな影響を受けます。住まいはその人を表すと言うのは、そのとおりで、心が乱れているときには家の中も乱れます。清潔で整頓された場所に行くと身も心もスッとする感じがするのは、心身がその場所の状態に影響を受けているから。つまり、うつくしくととのった部屋で暮らせば心身もととのいやすくなりますし、散らかった場所で暮らせば、心身もやはりそのようになるということです。部屋も心身も(ついでにお金も、なにごとも)、循環か滞りか、です。

そんなわけで、なんとなく落ち着かないな、というときは何も考えずに家の中を整理整頓。心の乱れをどうにかするのは大変ですが、家の中の乱れを正すことは多少は楽にできるでしょう。清潔で整頓された場所で暮らすことは、マインドフルに日々を過ごす大きな後押しになります。それに、日々、小掃除をしていると、大掃除も楽になります。

まずは、1日を終えるときに、部屋を整理整頓するところからはじめましょう。一年の計は元旦にあり、といいますが、一日の計は朝にあるようにおもいます。きちっと掃除をした完璧な状態を目指す必要はありませんが、人を招き入れても恥ずかしくない程度には部屋を整頓して眠りにつきます。自分を大切に扱うということは、自分が心地いい状態をつくってあげるということ。目覚めたときの自分が心地のいい状態をつくってから眠りにつくと、不思議と眠りも深くなるものです。

たとえば、キッチン。食材を手に入れて、調理をし、食べ、そして片付けるところまでが食の事、食事です。食べ終わってそのままゴロンとしたくなるかもしれませんが、使った調理器具や食器をきちんと洗って食器棚にかたづける。食器を洗ったついでに、シンクもさっとこすり、コンロ周りも拭いておきます。ここまで終えて、食事の終了です。

お風呂も同じように、入った後にそのままさっと洗います。温まっている状態、濡れたままの状態のほうが汚れは落ちやすく、手間もかかりません。バスタブを洗う無理な姿勢で腰を痛めることもないでしょう。ちなみに、無理な姿勢をとれば呼吸も乱れます。体のどこかを痛めれば呼吸も心も乱れます。

汚れは最初は、小さなチリやホコリです。そこに油や皮脂などが重なることでしつこい汚れになっていきます。チリやホコリであれば、はたきでさっとひと払いすればきれいになります。心も同じで、最初はちいさな違和感だったものが、だんだん大きくなっていくものです。汚れも心の違和感も溜めないこと。日々を心地よく暮らすコツですね。

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猫には暦は関係ないようで、いつでもマイペース。でも、新月や満月のときには様子が変化します。私も、その頃は心身に変化が在ります。自然環境に影響を受けるのは、どうにも避けようがありません。

 

 

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なにかをどうにかしようと思っている限りは結局のところ、苦しいところにい続けることになる

「心をととのえる」。マインドフルネスやヨガ、瞑想などが一般的になり、こんな言葉をよく見聞きするようになりました。「心をととのえる」。この言葉からどんな状態をイメージするでしょうか。どんなときも心穏やかで、冷静、感情の振り幅がないような、そんな感じかもしれません。ついカッとなって声を荒げてしまったり、なんだかわからないけどいろいろなことにイライラしたり、落ち込んだり、不安になったり……。そんな感情の波にもまれることなく、ピースフルな状態でしょうか。

マインドフルネスとは、いまここにあるものを、そのままに体験すること、そのことに気づいていることです。どんな大きな怒りがあろうが、悲しみがあろうが、その感情をただ体験する。その怒りをどうにか鎮めようとか、悲しみをなくそうとか、そういうことはしません。マインドフルネスは、心を穏やかにするものではないのです。結果的に、心が穏やかになる、ということが起きるかもしれませんが、心を穏やかにするものではないのです。

心や思考は、とにかくなにかをしたがります。「私には何もかもが不足している」とか「自分には価値がない」という観念が根っこにあるので、その不足、欠乏を埋めるために、また、達成感を感じるため、自分の存在の意義を見いだすために何かを「する」。

こんな自分は、ダメなんだ(=自分は欠乏している)。だから、マインドフルネス(やヨガや瞑想や、あるいはなにかの講座やセミナー)で、その自分をどうにかしなければ。存在する意味のある自分にならなければ。そんなふうに思考が判断し、マインドフルネスの練習をせっせとしたりするわけです。そうして、なんだか自分が成長したような感じがして(達成感)、満足します。でも、根っこにあるのは欠乏感ですから、まだこんなんじゃだめだ、とさらに頑張る、達成感、欠乏感、頑張る……ということがおきてきます。永遠のループです。

なにかをしようとする。なにかをどうにかしようとする。そうなると、思考の罠にかかって、永遠にそこから出ることができません。とにかく、なにかをしたいのが思考だからです。つねに、なぜこれが起きたんだろうと分析したり、どうすればここから一歩進んだところにいけるだろうかと考えたり、あのいつも落ち着いているひとは、どうしてあんなふうにいられるのだろうかと比較したり、とにかく忙しく働いています。思考の根っこにあるのは欠乏しているという考えですから、思考から抜け出さない限りはずっと苦しいわけです。

マインドフルネスの練習では、そういった思考の働きも含め、自分に起きることをただ体験します。それを消そうとかコントロールしようとか、そういう思考の喜ぶことはしません。思考から離れて自分に起きることをただ体験するために、体の感覚を利用します。というか、せっかく体があるのですから、きちんと「体」験すればいいわけです。

そして、思考の弱点のひとつには、過去と未来にしか存在できないということがあります。過去の記憶をもとに、なにかを恐れたり、未来のことを考えて不安になったり……。一方で、体の感覚は今この瞬間の現実です。たとえば、今スマホでこれを読んでいたとしたら、そのスマホを持つ手の感覚を感じることができるでしょう。でも、昨日の手のひらの感覚は感じることはできないですよね。思い出すことはできるかもしれません(思い出す=思考です)が、感じることは不可能です。つまり、体感覚として物事を体験するとき、必然的に今この瞬間にいることになるわけです。そうすると、自動的に思考から離れざるをえなくなるというわけです。思考が持っている欠乏感という根っこをどうこうしなくても、それに影響されないところに気づいたらいた。そんな感じでしょうか。

なにかをどうにかしよう。そう思っている限りは結局のところ、苦しいところにい続けることになります。今苦しさを感じているのだとしたら、それをどうこうしようとするのではなくて、ただ体験する。マインドフルネスの練習はとっても地味なんです。

 

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自分を受け入れるというのは、ダメなところを好きになる、とかそういうことではなくて、ダメとか良いとか判断なしに、ただ、そんな自分がいるなあ、と認める、ということです。

 

 

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