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Forget for get

呼吸と体を通して、自分を思い出すこと、それは「自分」を忘れること。呼吸と日々の食事でHIVとともに生きる心と身体をケアする松永真美が、生きることを活かすこと、「生活」について綴るつれづれブログ。

体感覚が戻ると自信(自身)が戻る

www.mylohas.net


身体は自分という本質の表現体です。
身体がなければ、私たちはなにもできません。
それなのに、身体のことはおろそかにしがち。

頭が痛くなれば、痛み止めを飲み、
鼻水や咳が出れば、それらの症状を止める薬を飲み、
そんなふうにして身体が発するシグナルを押さえ込んで、
なんでこんなときに! と自分の身体を責めてみたり。

でも実は、一番大切なのは、身体の感覚なのです。
身体の感覚とともにあるとき、私たちは、今この瞬間に生きることが容易くなります。身体の感覚は、今この瞬間の現実だからです。

だから、個人セッションでもまずは身体から入ります。
体感覚がない状態で、内側を掘っていってもすぐに壁にぶつかってしまううえ、
マインドゲームになってしまうから。
それに、内側を掘るのは終わりがないんです。

でも、身体がととのってさえいれば、おおかた大丈夫。
それでもどうしてもぶつかってしまうとき、はじめて内側を見ていきます。
トラウマやインナーチャイルドの癒しはそこからでも遅くない。
というか、身体がしっかりしてくると、
それらがあっても大丈夫っていう状態になるんです。
それは自分の本質ではないっていうことが体感覚としてわかるから。
夢みたいなものを、なぜか必死に握りしめてたんだなってわかる。

対人関係とか、子育てなんかで相手とどう接したら良いかわからない
そんな場合には、マインドや心の領域にも踏み込むこともあるけれど
でも、まずは身体の感覚を取り戻すところから。

それに、感情ばかりを扱って、それを「感じきる」「感じきらなければ」ってやって
泥沼にはまって鬱みたいになってしまうケースが結構あります。
感情を感じる力だけはつくのだけれど、その筋トレで終わってしまう。
だから、まず身体。
そうして感情や心は「自分」じゃないんだって体感することがすごく大切。

楽な身体や呼吸を体験したり、
その自分でいられるような調整をしたりして、
まっとうな体感覚が戻ってくると、
なんだかわからないけれど自分が信じられるようになります。
自分で自分を信じられる力がかえってくる。
自分で自分を信じて、私はこっちに行ってみるんだって、
たとえ恐れがあっても進める力。

今の自分の呼吸はどんなふうでしょう。
これを読んでいるとき、息を止めたり、肩に力が入ったりしていませんか? 
足の裏はどんな感じがしているでしょう? 
たとえ目は文字を追っていたとしても、
そのときにも足やお尻や、全身が存在していることに気づいていますか? 
目と、そこから入る情報処理に忙しい頭だけの存在になっていないでしょうか?

心との付き合い方を知っていることは、今この瞬間にいる役に立ちます。
でも、身体に意識を向けていること、身体の声を繊細に聞くこと。
それは、たいしたことがないように感じられるかもしれませんが、
実はとても大きな影響があるものです。
まずは自分の身体をととのえることがたいせつ。
注意深くその声に耳を傾け、快・不快をきちんと感じること。
それを基準にした言動をしてみること。

心地よく、自分本来のやさしい呼吸ができているかどうかは、
もっともわかりやすい基準です。

わたしたちには、自分で自分の道を歩く力が標準搭載されています。


今後のクラスなどのスケジュールはこちら
http://www.nowhereme.net/schedule


師と仰ぐ森田愛子先生の本のライティングを担当しました。
とってもやさしく書いたので、気楽に読んでいただけるかとおもいます。

 

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春が近いね!

 

 

「意図だけ持って、あとはおまかせ」ということについて

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「意図だけもって、あとはおまかせすればいい」
というようなことをよく言っているのですが
これって、つまりどういうこと?
なんにもしないってこと?
いえいえ、そういうわけではないんです。
書いてみたらなんだか結構長くなりました。

大学を卒業してから約15年間、編集者・ライターとして働いてきました。
編集者の期間のほうが圧倒的に長いですが、まあいろいろありました。
編集長が失踪したことにより、急に編集長になっちゃったりとか(笑)。

編集者の仕事っていうのはいまいち、見えないんです。
なにやってるのかわからない。
たとえばファッション誌の場合。

「春に着たいモテコーデ50」とかそんな特集が組まれるとします。
その特集が組まれる前段階として、編集会議なるものがあります。
私の場合、企画を練るときに

まず目的を明確にします。
これが意図ですね。
そして、そのための施策を考えます。
そして、その方法を考えます。

たとえば、目的は「幸せな女性を増やす」だったりします。
その施策が「日々のファッションの悩みを減らす」
方法として「モテコーデの提案」
そんなかんじです。

これって、雑誌作りだけじゃなくてけっこういろんな場面で使えるとおもう。

目的、施策、方法。

人に説明するときにも役に立ちます。
広告モノなんかも作っていたからこんなやり方がしみついたのかもしれません。

※編集者時代は、施策、方法を「考え」ていましたが
「意図を持ってあとはおまかせ」と私が言うとき、
施策や方法は考えません。
なんか、思いつく、なんかやりたくなる、依頼が来る、そんなかんじで
目の前に物事がでてきたりします。
なんかわかんないけど、ブログ書こう、ってなったり。

まあそんなかんじで、企画を編集会議に出して、企画が通ったら
校了日から逆算してスケジュールを立てます。
いつまでに撮影をすれば良いのか、いつまでにライターから原稿をもらえばいいのか、いつまでにカメラマンから画像をもらえばいいのか、などなど。

そこまでやって、はじめてスタッフの調整です。
この企画に見合うスタイリスト、カメラマン、モデル、ヘアメイク、ライター。
撮影日はこの日かこの日あたりなんですが、スケジュールどうでしょう?
って、電話をかけまくります。
大勢のスケジュールを調整するってなかなか大変です。
この人はこの日はOKだけど、この日はNG、この人は午前中はOKだけど午後はNG…
というように、表かなんかをつくって、スタッフのスケジュールをもらいます。
そしてめでたく全員の都合が合う日が撮影日、となるわけです。

スタッフが決まったら、打ち合わせ。
スタイリストにその企画の意図を説明し、意見をもらい、そして場合によっては
ここで「方法」がかわったりします。
モテコーデより、大人かわいいコーデとかのがいいんじゃないかとか。

カメラマンとは、どんな感じで撮影するかの打ち合わせをします。
外でロケなのか、スタジオなのか?
スタジオだったらどんなスタジオなのか?などなど。
ここで絵作りを相談して、スタジオの手配をします。
これも調べまくり、電話かけまくり。
初めての場所であればロケハン(実際に現場を見に行く)もします。
必要であれば撮影用の小道具を手配したりもします。
たとえば、風船あったらいいよね、とか花がたくさんあったらいいよねとか。
(スタイリストに手配をお願いすることもあります)

撮影日が決まって場所が決まったら、必要であればロケバスを手配したり
ロケ弁を手配したり、
まあとにかく、撮影日までに編集者がすることは
相談と手配。これにつきます。
撮影日にも、編集者は特に何もしません。
必要なカット数、ページを構成するのに必要なバリエーション
(モデルが右ばっかり向いてないかとか、縦位置横位置がバランスよくあるかとか)
があるかどうかのチェック。
なんとなく全体を見ているかんじで、
媒体や企画の方向性からずれていないかだけを見ています。
これは、その後の行程でもおなじですが、
どのタイミングであっても、判断に迷ったときにはその企画の目的に立ち戻ります。
そうすると、迷いってなくなる。

で、無事に撮影が終わったら、カメラマンから画像をもらって、選んで、
ライターから原稿をもらって確認して、ふたつを合わせてデザイナーへ。
企画の意図、何を見せたいのかなどを伝えて素材を渡します。

誌面のレイアウトがデザイナーからあがってきたら、
関係各所に内容の確認をしてもらいます。
洋服の値段、問い合わせ先などに間違いがないか、とか。

必要であれば修正をして、内容を確認して誤字脱字を確認して
編集長チェックをクリアしたら、校正に回します。
誤字脱字がないか、日本語としておかしくないかなどなどを確認してくれるのが校正。

そうしてこれでOK!となったら、印刷用のデータをデザイナーにつくってもらって
それを印刷所へ回します。
印刷所内でもいろいろな作業が分担されています。
画像を処理してくれる人、印刷機を回す人、製本する人などなど、
いろいろな人の手がかかってようやく、雑誌という形になるわけです。

長々よくぞここまで読んでくださいました。
これでも結構はしょってますが、でも何が言いたいかと言うと、
編集者って結局なんにもしてないんです
(最近では編集者がなんでもやっちゃう場合もありますが)。

言い出しっぺのくせに、なんもやってない。

形に残るようなことはなにもしてない。
写真を撮るわけでもないし、文章を書くわけでもないし、
デザインやレイアウトをするわけでも、印刷するわけでもない。

でも、本ってできあがる。
お願いして、相談して、手配しただけ。
すごいことです。

長々と、編集者のおしごととは、的なことを書きましたが
意図を持つ、そしておまかせするってこういうことだとおもってます。
なにもやらないわけじゃないんです。
自分ができることはもちろんする。
でも、あとはその道のプロにおまかせする。
編集者がいろいろ指示をしないほうが、おおっ!っていう誌面ができあがる。
だって編集者は、お願い相談手配のプロだけど、
写真や文章、レイアウトやデザインをするプロじゃないから。

たとえば、印刷所からあがってきたものが、ちょっと青っぽいなあと思ったとします。
印刷ではCMYK(シアン・青、マゼンダ・赤、イエロー・黄、ブラック)の
4色で刷ります。その組み合わせでいろんな色ができるわけです。

で、青っぽいなあと思ったときに、
それを印刷所への指示として、「Cをトル」なんて書いたとします。
それで青っぽさがとれるか、というと実はそんなことなかったりします。

青っぽさをとりたい=Cをトル

そんな単純な話じゃなくて、青っぽさをとるためには、
MやYを足すっていう場合もあるわけです。
だから、「青っぽさを取りたい」という意図を印刷所に伝える必要がある。
そうすると、印刷のプロが何色を引いて何色を足せば良いのかは考えてやってくれる。

意図を伝えると、あとは適切な形でプロが実現してくれる。

人生に置き換えていえば、意図を持つ。
で、それを投げてみる。
と、現象を作り出すプロ(something great/大いなるなにか)が動いてくれる。
私は目の前にあることをする。
それは、ただなにもせずに待っているのとはちがうわけです。

こんな話をきいたことがあります。
ある旅人がいました。
砂漠をラクダとともに移動していて、夜になり一泊することに。
旅人は神さまを信じていました。
神さまは、悪いようにはしない。必ず守ってくれる。
もし、このラクダが私に必要ならば、木にくくりつけておかなくとも
朝になってもまだここにいるはずだ。

そんなふうに思って、ラクダを木にくくりつけずに眠りました。
朝起きると、ラクダはいなくなっていました。
旅人は、神さまに、
「私はあなたを信じていたのに、なぜラクダがいなくなったのでしょうか!」
と、問いかけました。
するとこんな返事が返ってきました。
ラクダが必要であれば、
ラクダを木にくくりつけておくのは、おまえのやるべきことだ。

そんなかんじです。


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前に進むために癒しは必要なのか

どんなにたくさんのセッションを受けて、
過去にできた傷やトラウマを癒しても、
自分の深い深いところを探っていっても、
結局のところ、いま、その一歩を、あるいは一手を変えるしか
変わる方法ってないんだとおもう。

それはつまり、癒しがなくても、
新しい道に進んでいくこともできるっていうこと。
結局のところ、自分が「今」にあることがすべて。

でも、そっちに行くのがこわかったり、無気力になっちゃったりするときに
傷やトラウマの癒しはそっちに行ってみよう!って
おもえる勇気をくれるんだとおもう。
でもだからといって、前に進めないのはそういう傷やトラウマのせいじゃない。
そのせいにしたくなるけど。
進めないんじゃなくて、進まないという選択をマインドとしての自分がしているだけ。
(マインドは、自分を守ろうとして、それが最適な方法だっておもって、
その選択をしてくれている。)

人とどんなふうに関係性を築いていくかについては、
家族や幼稚園や学校や、コミュニティなんかを通して学んでいくけれど、
自分の感情やマインドとどんな関係性を築いていくかについては、学ぶ機会ってない。
だから、適切な距離を取れなくて、突き放してしまったり、
共依存みたいになったり、おぼれてしまったりする。

感情って、ただのエネルギーの動き。
それが体感できると、感情とほどよい距離感で付き合えるようになる。
ここでもやっぱり、呼吸や体感覚はとってもだいじです。
まずはそこから。

マインドは、守り役。ガードマン。必死で守ろうとしてくれている。
よかれとおもって、いろいろな判断をしてくれている。

2月は名古屋、3月は京都で場を開きますが、
そのときにそのあたりもシェアしようと思っています。

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暖かかった週末、ひさしぶりに夕暮れ時をビーチで過ごしました。「夕焼けを見る」っていう目的もなく、ただのんびりと。寄せる波、返す波。くりかえし、くりかえし、でもぜんぶちがうというその奇跡。


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他者にやさしくあるために必要不可欠なことは、自分にやさしくあること

人にやさしくできないとか、だれかをうらやましく思うとか、だれかのささいな言動にイライラするとか、そんなことがあったとしたら。そんな自分を「ダメな自分だ」と責めるかわりに、もっと自分をかわいがってあげることをおすすめしたいとおもいます。

他者にやさしくあるために必要不可欠なことは、自分にやさしくあることです。

そもそも、人にやさしくできなければダメだ、人をうらやんだらダメだ、小さなことでいちいちイライラしたらダメだ、なんて誰が決めたのでしょう。世間?社会?文化? いえ、自分です。残念ながら、自分なのです。誰かがそう言ったかもしれません。たくさんの人がそう言うかもしれません。でも、それは数あるうちのひとつの意見にすぎません。それでもそれを「その通りだ」と採用しているのは自分なのです。

自分自身に、それが感情であれ考えであれ言動であれ、いちいちこれはいい、これはだめ、と誰よりも厳しいジャッジをくだしているのは、自分自身です。どんなふうに責めれば「効く」のか。どんなところをつかれると痛いのか。それを一番わかっているのは自分です。だから、自分は、誰よりも自分に鋭い矢を向けられるのです。

それがどんなものであれ、自分の中にあるものすべてにちゃんとスペースをとってあげる。よくないこと、悪いこと、ひどいこと、醜いこと。そんなふうに思えるものであったとしても、それを持つ自分にOKを出してあげる。無条件の愛を他者に向けようとがんばるまえに、まずは自分に無条件の愛を差し出す。自分が持っていないものを、人に差し出すことはできませんから。

1年の最後の月です。1年間を振り返ってみるなら、こんなふうにするのがおすすめです。この1年、どれだけのうれしいこと、よろこびを体験したでしょうか。 今年体験した、うれしかったこと、たのしかったこと、喜びを感じたことを、ノートに書き出してみます。10項目くらい挙げてみます。そして、それらのことを体験できたこと、自分にその体験をさせた自分自身を褒め称えます。自分に表彰状を渡すつもりで、自分が自分に対してどんな功績を残したのかを書き記してみます。自分の人生をお祝いして豊かさに光をあてる方法のひとつです。

そして、お祝いと同様に大切なのは、実は「嘆くこと」です。自分がどれほどつらかったか、どれほど大変だったか。1年を振り返れば、いろいろあることでしょう。上司に理不尽に怒られて怒りがわいた、とか、パートナーにこんなことを言われて悲しかった、とか、なんでも、どんなことでも書き出してみます。こちらも10項目くらい挙げてみます。そして、そのときの自分がどれだけつらかったのか、大変だったのかを認識します。感情がわきおこってきたら、それをそのままに受け止めます。それは自分への無条件の愛です。そうしてはじめて、それらの出来事は清算されます。

自分が自分の親友になったつもりで、自分と対話を。うれしかったことも、つらかったことも、そのままに受け止め、ともに喜び、お祝いをし、悲しみ、怒り、嘆きます。

祝福することと、嘆くこと。どちらも、同じように尊い体験です。右がなければ左がないように、上がなければ下がないように、嘆きがなければ、祝福もないでしょう。1年の締めくくりとしてだけでなく、日々のお祝いと嘆きを書き出してみるのもおすすめです。

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毛繕い途中の猫。猫ってよく毛繕いをしているんですが、起きている時間の40%を毛繕いに費やしているというデータもあるそう。私たち人間は自分の体のケアにどれだけの時間を使っているでしょうか。


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あれこれ心配しなくても、私たちには調和的に生きるシステムが基本搭載されています

 冬はあたたかくさえしていればなんとなくしあわせ。しあわせのハードルが下がる季節だとおもっています。あたたかいブランケットや靴下、帽子に手袋などなど、冬にそなえてあったかグッズを準備するのはたのしいものでもあります。そして、冬に備えての準備、体もちゃんと見えないところでしてくれています。

 耳にしたことがある方もいるかもしれませんが「ホメオスタシス(生体恒常性)」という仕組みが人には備わっています。生きていく中では、温度や湿度など外側の環境は変化していきますが、そんな変化があっても、体の状態を一定に保とうとする仕組みです。この仕組みがあるために、夏の暑いときに体温がどんどん上がり続けることはないですし、冬になって気温が下がったからといって体温も下がっていくことはなく、1年を通してほぼ同じ体温を保っているわけです。環境の変化に反応して体を働かせ、健康な状態、生命を維持しようしています。

 私たちは腕を動かそう、と思って動かすことはできますが、汗をかこう、とおもってかけるものではありません。でも、体温が上がりすぎた、汗をかこう、なんていちいち自分でどうにかしなければならなかったら、日々大忙しです。私たちが体にいちいち言わなくても勝手に調整をしてくれる仕組みがホメオスタシスです。そんな素晴らしい機能を私たちは持って生まれてきているというわけです。

 体にそんなスーパー機能があるにもかかわらず、現代に生きる私たちは、どうも体よりも頭を優先してしまうようです。食べ物が必要になれば空腹感を感じさせ、水分が必要になればのどの渇きを感じさせるように、体の状態の変化に応じて、いろいろなサインを出して行動をうながしているのも、ホメオスタシスという仕組みによるものです。

 それなのに私たちはお腹が空いてもいないのに食べたり、体がだるいのに体にムチを打って活動したりします。そんなことを続けていると、体は本来の機能を働かせられなくなってしまいます。

 体の声を聴いてみましょう。お腹が空いたら食べ、お腹が一杯なら食べない。寒さを感じたら、体を温め、疲れたら休息をとりましょう。

あれこれ心配しなくても、私たちには調和的に生きるシステムが基本搭載されています。

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急に寒くなった日、テンションだだ下がりの猫。猫は、心地のいい場所を探すのが得意です。冬は家の中でいちばんあたたかい場所にいますし、夏はいちばん涼しい場所にいます。

 
 また、「ホメオスタシス(生体恒常性)」という仕組みは、いわば安定させる仕組み。つまり、わたしたちには、変化よりも安定を求める性質があるともいえます。そして、それは体だけでなく、心にも同じように作用します。

 「変わりたい!」そんなふうに思うとき、わたしたちは一気に変わろうとします。「健康になりたい」と思えば、早寝早起きをして、食事は腹八分目、これは食べない、あれは絶対食べる、などいろいろな項目をかかげ、それを実行しようとしては三日坊主で終わってしまう……。

 大きな変化は、思考としては大満足です。自分にはそれを実行するだけの力があると思えますし、達成感も味わえます。でも、体的には大きな変化はストレス。ホメオスタシスの仕組みにより、もとに戻そうとします。結果、いろいろ目標を掲げたけれどすぐに挫折、ということになるわけです。自分の意志力が弱いからとか、怠惰だからとか、そんなふうに自分を責めるのはナンセンス。もともと備わった仕組みにはあらがえません。

 では、わたしたちは変わることができないのかというと、そんなことはありません。変わりたいのであれば、少しずつ、ゆっくりと。実はこれは、思考としてはまったくおもしろくありません。思考にとって大切なのは「やった感」。地味なことをコツコツと続けるのは、苦手とするところです。でも、ここでこそ「意志力」を使うときです。体に備わった機能に反することをするよりも、意志力で思考をコントロールするほうがまだラクです。

 「なにかをしよう!」「変わろう!」そう思ったら、少しずつ、少しずつ。そして十分になじんでから次のステップへ。「すぐに結果を!」「前へ!前へ!」というスピード感をよしとすることに慣れていると、じれったく感じるかもしれません。でも、小さなことをコツコツと。これがいちばんストレスが少なく、心身に無理強いすることなく、早く変化することができるとおもうのです。


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蚊が顔を刺すという慈悲について

ちょっと前のこと、首を絞めて殺される夢をすごくリアルに見ました。
あまりにリアルすぎて、これは別の次元で「自分」が体験してることなんでは?
と思うほど。

そんな話をいろいろ見えちゃう系のひとに話したら、
ある人物に対して「許せない」っていうのがあるよねと。
思い当たるふしがないではないけれど、それは思考レベルでの話であって
状況から推察するにそんな思いがあっても当然だろう、くらいの感じでした。
「許せない、このやろう!」感が体感としてはないのです。
なので、扱うに扱えない。

感情は、エネルギーとして体感で扱わない限り、
マインド内であれこれやって、やった感だけあって
エネルギー的にはなにも変わりません。
ちなみに体感で扱うのは、特別なことではなくて誰もが体で味わえることです。
(これに関しては、年明けにシェアする場をひらきます)

どうやら私のなかにあるっぽい
「許せない、このやろう!」感は、扱うには大きすぎて
マインドさんがきちっと蓋をしてくれたんだろうなという感じ。
それでも「許せない、このやろう!」感があるんだろうな、という認識をした翌朝、
ばっちり寝違えて、さらに胃も硬くなってました。

体にはいい感じででてきている感じがする……。
でも「許せない、このやろう!」感は全然出てこない。
ただ、ここで、寝違えたのをどうにかしようとか、硬い胃をほぐそうとかするのも
ちょっとちがう、というかコントロールを生む。
でも、そのまま、もつらいので、呼吸だけはラクなところに。
そうして、ただ痛みのためのペースを用意します。

「許せない、このやろう!」感、出てこないかな〜と思いながらも
これはもう私にはどうにもできないので、
かみさま、かみさま「許せない、このやろう!」感を味あわせてください、、
と、なんとなく投げてみました。


そして、数日後の夜。初雪が降った寒い日でした。
眠っていたら、ぷ〜んという音。
蚊っぽいけれど、もうずいぶん蚊は見てないし
こんな寒い日に蚊なんているわけないよね、とまた眠りに落ちました。
が、おでこのかゆさで目を覚ましました。
え、やっぱ蚊?
電気をつけて目をこらすけれど、いない。
気づけば腕も刺されていて、かゆい。
ほどなくして、またぷ〜ん。

これが夏なら、ベッドから出て蚊遣りを焚いたり
虫カップ(綿棒が入っていた透明のカップ。虫捕獲用)でつかまえたりするんですが
なにせ寒い寒い夜。
ベッドから出たくない。
どうしようかなあ、なんておもっているとまたぷ〜ん。
だんだん蚊に対してイライラしてきました。おでこ、かゆいし。

イライラする!イライラする!イライラする!
このやろう! 殺してやる!

と、十分にイライライライラして、殺してやる!殺してやる!
そんなふうに、イライラと、自分の中にある他者への殺意を迎え入れていたら
気づかぬうちにまた寝てました。
(イライラって、イライラさせておけば、かってにいなくなるんです。)

次の日起きたら、ほっぺも刺されてました。

起きて思ったことは、おお、望み通り、
「許せない、このやろう!」感を見事に味わったじゃないか!ということ。
それを味わわせてくれた蚊の慈悲。かみさまの慈悲。

相手との関係性というストーリーとともに蓋をして保存された
「許せない、このやろう!」感は、まだあると思うけれど、
たぶんちょっと蓋があきました。
蓋は無理にあけなくても、その時が来たら勝手に開くし、
開いたら、そのままにしておけば、
沸騰しているお湯が蒸気になってなくなるように、形が変わっていきます。

一気に蓋があくかもしれないし、ちょっとずつかもしれない。
いずれにせよ、感情をなかったことにしないで、ちゃんと扱うことで
プログラムされたパターンが弱まっていきます。
自分で作り上げたストーリーから自由になる方法のうちのひとつです。

ちなみに、その日も部屋の中で何度か蚊を見たけれど、刺されはしませんでした。

 

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何年か前の雪の日にはしゃぐうちの猫。猫はこたつで丸くなるんじゃないんか……。

 

 

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お金を使うときの自分のパターンに気づいてみる

自分に気づいていること。気づくための時間、瞑想やマインドフルネスの時間をとるのではなく、常に気づいていること。これは、マインド(思考や心)の支配やパターンから自由になるための近道です。

とはいえ、いつなんどきでも気づいているのは最初はなかなか難しいものです。そこで、マインドフルネスのクラスなどでは、まずは気づいている時間やシーンを区切ることをおすすめしています。たとえば、朝食の間、歯磨きのとき、食事の最初の5分間、バスタイム、家から駅までの道のりなど、そのときだけは自分の感覚、思考、感情に気づいているようにする。そして、気づくという感覚を身につけ、その時間を増やしていくのです。

体感覚、五感で感じる刺激に気づいている練習は、以前ご紹介した食べる瞑想や歩く瞑想がトライしやすいでしょう。体感覚や五感に耳をすませるのは、今この瞬間にいるための方法です。過ぎ去った過去でもなく、まだやってきていない未来でもなく、今この瞬間という現実を生きる。いつでもその状態であれば、それはつまり、マインドから自由になっているということです。なぜなら、マインドは過去、あるいは未来という幻想を生み出し、その幻想の中でのみ生きているものだからです。

 そして、自分の思考や感情に気づいていることもマインドの支配から抜け出す方法のひとつです。誰かの言動によって心や思考が動いたときや、あるいは自分が何かをしているときの自分の思考や感情。たとえば、待ち合わせの相手が約束の時間より遅れてきたとき。イライラしたり、なんてだらしないひと! なんていう思考が湧いてきたとしたら、そのことにただ気づきます。善し悪しはなく、ただそれがあることを認めること、気づくことは、とても大切です。これまでにも、何度かそんなことをお話ししました。今回は、そんなふうに感情が動くときだけでなく、何気ない日々の自分の思考にも目を向けてみることをおすすめしたいとおもいます。

たとえば、日々の買い物。自分にとって高額のものを買うときには特に、自分の中で対話が起こることに気づきやすいかもしれません。本当に必要? 贅沢すぎない? もっと安くていいものがあるんじゃない? などなど。一方で、自分に取って安いと思えるものを買うときにはどうでしょうか。

たとえば、スーパーで値引きになっているお惣菜や、ペットボトルの飲み物、ちょっとしたお菓子。特に、値引きになっているものを買うときに自分の中で起きていることを見てみるのはおもしろいものです。グリーンサラダが食べたいなと思ってお惣菜コーナを見ていたとします。すると、グリーンサラダは1000円だけれど、通常1500円の温野菜サラダが値引きになって500円で売っている……。グリーンサラダが食べたかったけれど、温野菜サラダのほうがお得だし、こっちにしよう。そんなふうに、自分の「食べたい」を、金額を理由にいとも簡単に却下し、そんなに欲しくもなかったものを金額を理由に買ってしまう。そんなことはないでしょうか。

金額を理由に選ぶことが良いとか悪いとか、そういうことではありません。ただ、金額を理由に自分が本当は欲しいと思っていたものを買わない、あるいは、欲しいと思ってなかったものを買うことがある、そういうパターンがあるということに気づいていましょう、ということです。そうして、そのパターンで買ったものを実際に食べたり(着たり、使ったり)するときに、どんなものが自分の中に湧いてくるかにも気づいていましょう。もし、それがあまり心地の良くないものであったなら、次からはそのパターンを変えてみればいいのです。安さを理由に買い物をするくせがあるなら、初志貫徹、欲しいと思ったものを買ってみる。そしてまた、自分の中に起きるものに目を向けてみる。

何か特別なことをしなくても、日常の中に自分に気づく要素はたくさんあるんです。

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金額の大小に関わらず、買い物で迷ったときの指針にしているのは「悩む理由が金額だったら買う、買う理由が金額だったら買わない」です。食材を買うときは特に「食べたい」「おいしそう」が大事。

 

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